第三話 お嬢様はコンビニを知らない
四月の半ば。朝のホームルームの時間に、来週予定されている校外学習の話が持ち上がった。
「今年の校外学習は鎌倉。鶴岡八幡宮周辺を見たあと、班ごとに自由行動な。飲み物とか食べ物は、必要なら各自で用意しとけ」
俺がそう説明すると、教室のあちこちで「了解でーす」という気の抜けた返事が返ってきた。特に問題もなさそうな雰囲気だったので、そのまま次の連絡事項に移ろうとしたところで、教室の空気にわずかな違和感を覚えた。
窓際の席で、玲華の表情がほんの一瞬だけ強張っていた。
気のせいかとも思ったが、そのあとの休み時間、玲華がミウに小声で何かを相談している場面を見かけて、その違和感が気のせいではないという確信に変わった。
「ミウ、少しよろしいですか」
「なに、あらたまって」
「その、自由散策の件ですが」
「うん」
「飲食物は、その、各自で調達しろとのことでしたわね」
「そだね。コンビニでもどこでも寄って買えばいいんじゃない」
玲華の肩が、目に見えてぴくりと動いた。
「コンビニ、ですの」
「そう、コンビニ。れーちゃん、コンビニ知らないの?」
「知っておりますわ、当然」
声のトーンが、明らかに一段高くなっていた。ミウは特に気にした様子もなく、スマホの画面に視線を戻している。
「じゃあ、いつもどこのコンビニ使ってんの?」
「……いつも、使っている、コンビニ」
玲華の視線が、宙をさまよい始めた。俺は教壇の近くでそのやり取りを聞きながら、内心で首をかしげていた。
☆
放課後、俺は職員室で明日の授業準備をしながら、ふと三宅先生に玲華のことを話してみた。
「なあ、東雲ってさ、コンビニ行ったことないのかもしれない」
「ああ、東雲さんですか。それ、たぶんそうだと思いますよ」
「なんでそんな即答なんだよ」
「あの子の家、確か運転手付きの車で送り迎えされてるはずです。買い物も、決まったデパートかご自宅への配達がほとんどだって聞いたことあります」
「じゃあ、なんで『知っておりますわ』とか言ってたんだ」
「知らないって言うのが、恥ずかしいんじゃないですかね。東雲さんって、成績も完璧、立ち居振る舞いも完璧、そういう子ですし」
三宅先生の言葉に、俺は妙に納得してしまった。
☆
翌日の昼休み、俺は教室の隅で弁当を食べている玲華に、それとなく近づいてみることにした。周りにはミウの姿がない。今なら少し話しやすいかもしれないと思ったからだ。
「東雲」
「はい、先生」
「お前、コンビニ行ったことあるのか」
直球すぎる質問だったかもしれない。玲華の箸が、宙で止まった。
「もちろんですわ。何度も」
「じゃあ、コンビニの入り口の音、覚えてるか」
「入り口の、音」
「ドアが開く時のピンポンって音」
「……存じておりますわ」
あからさまに間を置いての返事だった。俺はさらに畳みかける。
「レジ横のホットスナック、何が一番好きだ」
玲華の視線が、明らかに泳いだ。
「その、色々ありますでしょう、から……」
「知らねえなら知らねえって言えばいいだろ」
玲華の肩が、びくりと跳ねた。表情が一瞬にして崩れて、いつもの完璧な微笑みが消える。かわりに浮かんだのは、隠し事を見破られた子どものような、ひどく気まずそうな顔だった。
「……存じません」
消え入りそうな声だった。
「一度も、行ったことがございません」
「べつにそれ、恥ずかしいことじゃねえだろ」
「恥ずかしいですわ」
玲華は俯いたまま、両手で弁当箱の縁をきつく握りしめていた。窓から差し込む昼の光が、彼女のうなだれた横顔を白く照らしている。
「わたくし、東雲の娘として、あらゆる場面で恥をかいてはならないと育てられてまいりました。知らないことがあるというのは、家の恥になります」
「コンビニ知らないだけで家の恥になるわけねえだろ」
「先生には、わかりません」
その一言には、思いのほか強い響きがあった。俺は少し黙って、玲華の言葉の続きを待った。
「わたくしの周りには、完璧な東雲玲華しか存在してはいけないのです。ミウには……ミウにだけは、少し違うところも見せられますけれど」
そう言った後、玲華は自分の発言にはっとしたように、慌てて付け加えた。
「い、今のは忘れてくださいまし」
「べつに覚えとくほどのことでもねえよ」
そう言いながらも、俺の頭の中には、玲華とミウのあの近すぎる距離感の理由が、少しだけ見えた気がしていた。
☆
その日の放課後。廊下で玲華を見かけた俺は、呼び止めて単刀直入に提案した。
「行くか、コンビニ」
「……は?」
「今から。ミウも呼んで」
玲華は目を丸くしたまま、しばらく固まっていた。
教室に戻ってミウを探すと、ちょうど帰り支度をしているところだった。事情を話すと、ミウは面白そうに笑った。
「あー、なるほどね。れーちゃん、ついにバレたか」
「ミウ、知っていましたの」
「そりゃ知ってるよ、中学からの付き合いだし」
「言ってくださればよろしいのに」
「れーちゃんが隠したがってたから黙ってただけ」
二人のやり取りを聞きながら、俺は少し呆れつつも、なぜかほっとした気持ちになっていた。
☆
学校近くのコンビニに三人で足を踏み入れた瞬間、玲華は入り口で立ち止まった。自動ドアが開く音に、びくりと肩を震わせている。
「これが、噂の……」
「噂って大げさだな」
俺が呆れて言うと、玲華は真剣な顔で店内を見回し始めた。陳列棚に並んだ商品の一つ一つを、まるで美術館の展示品でも眺めるような目で見つめている。
「これは、おにぎりというものですわね」
「そうだよ」
「種類が、こんなに」
「まあ、そこそこあるな」
「先生、この三角形の包装は、どこから開封するのですか?」
「番号振ってあるだろ」
「一、二、三……なるほど。暗号ではなかったのですね」
「コンビニのおにぎりに暗号仕込んでどうすんだ」
玲華はレジ横のホットスナックコーナーの前で、完全に足を止めてしまった。ガラスケースの中で温められている揚げ物を、食い入るように見つめている。
「あれは、何ですの」
「アメリカンドッグ」
「アメリカン、ドッグ」
「食ってみるか」
玲華は少し迷った後、小さく頷いた。ミウがレジで会計を済ませる横で、玲華は初めて手にしたアメリカンドッグを、両手で大事そうに持っていた。
☆
店の外に出て、駐車場の隅に置かれたベンチに三人で座る。夕方の光が、少しずつオレンジ色を帯び始めていた。玲華は一口かじって、目を見開いた。
「美味しい……」
その表情は、これまで俺が見てきたどの玲華の表情とも違っていた。完璧なお嬢様の仮面が外れて、ただの高二の少女がそこにいるように見えた。
「先生、あの、こちらの飲み物の自動販売機は」
「ああ、あそこな」
「一本、買ってみたいのですが」
「好きなの選べよ」
玲華は自動販売機の前で、真剣な顔でボタンを選んでいた。硬貨を入れて、ゴトンという音とともに商品が落ちてくると、小さく歓声を上げた。
「先生……この価格でドリンクを何杯飲んでもいいんですの?」
「いや、それ一本の値段だぞ」
「そうなんですの?」
ミウが横で盛大に噴き出した。
「れーちゃん、それ庶民の常識からもズレてるから」
「庶民の皆様は、こんなに簡単に美味しいものが手に入りますのね……」
しみじみと呟く玲華の姿に、俺とミウは思わず顔を見合わせて笑ってしまった。
夕日が校舎の向こうに沈みかけている。オレンジ色の光が、駐車場のアスファルトを長く照らしていた。玲華はアメリカンドッグの最後の一口を大事そうに食べながら、満足そうな笑みを浮かべている。
「先生、また連れてきてくださいまし」
「そんな頻繁に来るとこじゃねえだろ、普通」
「わたくし、まだ知らないものがたくさんございます」
その言葉に、俺は苦笑いを返しながらも、少しだけ嬉しい気持ちになっていた。知らないことを知らないと言えるようになった玲華の顔が、初日に見た完璧な微笑みよりも、ずっと自然に見えたからだった。




