第二話 女子校では、それが普通らしい
二年桜組の担任になって数日後。四十名近い生徒の名前はほぼ覚えたものの、俺はまだ、教室に入るたびに漂う独特の空気に慣れていなかった。
今日も教室に入った瞬間、甘い菓子の匂いに、制汗剤やハンドクリーム、それに誰かの香水らしき香りまで混ざった空気が鼻をつく。
「……なんだこの匂い」
初日からずっと思っていたことを、とうとう口に出しちまうと、ミウが振り返った。
「なに、先生。臭いってこと?」
「臭いとは言ってねえ。種類が多すぎるんだよ」
「種類?」
「前の男子校なんか、だいたい汗と制汗剤と購買のパンだったぞ」
「最悪じゃん」
「夏場はそこに体育館の床みたいな匂いも加わる」
「聞きたくなかった」
ミウが露骨に嫌そうな顔をした。
「先生、女子校と男子校を匂いで比較しないでください」
近くにいた別の生徒まで、呆れたように口を挟んでくる。
「比較したくてしてるんじゃねえよ。鼻が勝手に比較してんだ」
☆
その日の一時間目。俺が受け持つ、この学年になって最初の現代文の授業が終わった。
「で、俺の授業どうだった」
教卓に教材をまとめながら聞くと、教室のあちこちから間を置かずに声が返ってきた。
「思ったより普通だった」
「もっと黒板の前うろうろするのかと思った」
「してただろ」
「してたけど、想像よりは」
「どんな想像してたんだよ」
笑い声が上がる。
「でも白崎先生の授業も受けてみたい」
誰かがそう言うと、すぐに別の生徒が反応した。
「わかる。白崎先生の授業受けたいから、理系で物理選択にした子いるらしいよ」
「化学苦手なのに選んだ子もいるって聞いた」
「それわたし」
「授業の選び方それでいいのか?」
「モチベーションは大事です」
「もっと別のところで出せ」
また教室が笑いに包まれた。
「先生、白崎先生に勝てそう?」
「何で勝負するんだよ」
「人気」
「最初から勝つ気ねえよ」
「諦めるの早っ」
俺はため息をつきながら、教材を抱え直した。
そのまま休み時間になった瞬間、教室の様子が一変する。机と机の間を縫うように生徒たちが動き回り、あちこちで小さな輪ができる。それ自体は普通の光景だ。問題は、その距離感だった。
「ねえねえ、聞いてよ」
声をかけながら、神楽坂ひなたという小柄な生徒が、隣の席の生徒の背中に後ろから抱きついていた。抱きつかれた側も特に驚く様子もなく、そのまま会話を続けている。
窓際では、二人の生徒が腕を組んだまま何かのプリントを覗き込んでいた。
さらに視線を移すと、教室の後方で、一人の生徒が机に突っ伏すようにして、隣の生徒の膝に頭を乗せている。膝を貸している方は、スマホをいじりながら、それが当然のことのように相手の髪を撫でていた。
俺は教材を抱えたまま、しばらくその光景を眺めていた。
「……あの」
教壇の前で立ち尽くす俺に気づいたのか、黒髪ショートが印象的な委員長、大宮千紘が近づいてきた。
「先生、どうかしましたか」
「いや、あれ」
俺は膝枕をしている二人を指差した。
「あれ、普通なのか」
「普通ですよ」
即答だった。迷いのかけらもない。
「女子校では、それくらい普通です」
「いや、普通じゃねえだろ」
「普通です」
「絶対普通じゃねえ」
千紘は、俺の反応の方が理解できないという顔をしていた。
「先生、共学だとそうじゃないんですか」
「共学どころか俺、前は男子校だぞ。膝枕とかしたら、それもう何かの罰ゲームだ」
「男子校の常識と比べられても困ります」
「お前が今、俺の常識を否定してきてるだろ」
千紘は少し困ったように、廊下側の窓に目をやった。柔らかい朝の光が差し込んでいて、埃の粒がゆっくりと空気の中を漂っているのが見える。
「女子校って、たぶん先生が思っているより、距離感が違うんです。友達同士で手を繋いだり、腕を組んだり、抱きついたり。それが特別なことじゃなくて、日常の延長線上にあるというか」
「その説明、お前は真顔でするけど、俺からするとかなり異世界の話だぞ」
「異世界って言われても」
千紘は困った顔のまま、それでも冷静さを崩さなかった。この生徒が「常識人」だと聞いていたが、その常識のラインが俺の知っているものとはどうも根本からずれているらしい。
休み時間の喧騒がひとしきり続いた後、俺の視線は自然と教室の一角に吸い寄せられていった。
窓際の席で、長い黒髪をきれいに整えた生徒――東雲玲華が、隣の席の金髪の生徒――星川ミウの肩に、当たり前のように頭を寄せていた。
ミウの方は、片手でスマホを操作しながら、もう片方の手で玲華の髪を無造作に撫でている。
「ミウ、髪、乱れます」
「気にしすぎ。れーちゃんそういうとこ細かいよね」
「わたくしは細かいのではなく、丁寧なのです」
「はいはい」
ミウは軽くあしらいながら、玲華の飲みかけのペットボトルを、断りもなく手に取って一口飲んだ。
「ミウ、それわたくしの」
「いいじゃん、減るもんじゃないし」
「減っていますわ、実際に」
言葉では文句を言いながらも、玲華はミウの手からペットボトルを取り返そうとはしなかった。それどころか、少し嬉しそうにさえ見える。
俺はしばらくその一連のやり取りを、無言で観察していた。
委員長、千紘の説明を思い出す。女子校では、これくらいの距離感が普通。だとしても、この二人のそれは、なんというか――質が違う気がした。
他の生徒たちの間で交わされる抱擁や腕組みは、瞬間的で、次の瞬間には別の話題、別の相手へと移っていく。だがこの二人の距離感には、そういう軽さがない。もっと根の深い、当たり前のように積み重ねられてきた時間の重みのようなものを感じる。
周りの生徒たちも、二人のやり取りを特に気にする様子もなく、むしろ微笑ましいものを見るような目で眺めていた。
「先生、あの二人ガチだから」
いつの間にか隣に来ていたひなたが、缶バッジを揺らしながら耳打ちしてきた。
「ガチって、何が」
「もう完全にそういう関係。れいみうは公式ですよ、公式」
「れいみう?」
「玲華ちゃんとミウちゃんのことです。カップリング名です」
カップリングという言葉の意味を、俺はよく理解できなかった。しかし今のやり取りを見た限り、なんとなく察するものはあった。
俺は教室から出て次の授業を受け持つクラスに向かう途中、廊下で偶然出会った白崎先生に一応尋ねてみた。
「なあ、白崎。カップリングの意味知ってるか?」
「ジアゾニウム塩からアゾ化合物を作る反応のことですね。大学入試でもよく出題される、高校化学の重要な用語です。生徒から質問でもされましたか?」
「いや、化学のそれとは違うみてえだけど」
「化学の用語以外でのカップリングは、僕の専門外ですね」
☆
昼休みになり、教室の空気がさらに緩んだ。玲華とミウは相変わらず二人で並んで弁当を食べていて、玲華がミウの弁当箱から唐揚げを一つ、当然のようにつまんでいる。
「れーちゃん、それあたしの」
「一つくらいよろしいでしょう」
「毎回一つずつ取ってったら、いつか全部なくなるんだけど」
「ミウはわたくしの分から、いつも卵焼きを取っていますわ」
「それはノーカン」
「ノーカンとは何ですの」
俺は教壇のあたりに座って弁当を広げながら、その様子を眺めていた。二人のやり取りを見ていると、疑問がどんどん膨らんでいく。友達同士だと言われれば、そうなのかもしれない。だが、この距離の近さは、俺の知っている「友達」の枠を大きく超えているように思えた。
昼休みが終わりに近づいた頃、俺はとうとう我慢できずに立ち上がった。教壇の前まで歩いていって、二人に声をかける。
「東雲、星川」
「なに」
「何でしょうか?」
二人が同時にこちらを見た。俺は少し迷ったが、結局、思っていたことをそのまま口にした。
「お前ら付き合ってんの?」
教室の空気が、一瞬で凍りついた。
「――は」
最初に声を出したのはミウだった。手に持っていた箸が、宙で止まっている。
「違います!」
「違うし!」
二人がほぼ同時に否定した。玲華の顔が、耳まで真っ赤に染まっている。ミウの方も、いつもの余裕のある表情が崩れて、明らかに動揺していた。
教室中の視線が一斉にこちらへ集まった。
「せ、先生――」
「それ聞いちゃダメなやつ!」
「空気読んでください!」
「今まで誰も直接聞かなかったのに!」
教室のあちこちから抗議の声が上がる。高鳥すみれという眼鏡の生徒だけが、ノートに何かを猛烈な勢いで書き込んでいた。
「先生、それは違います。あの二人は、暗黙の了解の中で保たれてきた繊細な均衡なんです。土足で踏み込んじゃ駄目な領域なんです」
「何言ってるかわからねえよ」
「わたくしにも、わかりませんわ……」
玲華が両手で顔を覆いながら小さく呟いた。ミウは気まずそうに視線を逸らして、机の上の弁当箱にやけに集中していた。
俺は自分が何か大きな地雷を踏んだらしいということだけは理解した。だが、なぜそれが地雷なのかは、依然としてよくわからないままだった。
☆
放課後、職員室に戻ると、三宅先生がすでに噂を聞きつけていたらしく、呆れた顔で待ち構えていた。
「先生、また派手にやりましたね」
「何が」
「東雲さんと星川さんに『付き合ってんの?』って聞いたって、もう学年中の噂になってますよ」
「聞いただけだろ」
「聞いちゃいけないことってあるんです、この世には」
「じゃあ次から確認しねえ」
「そうしてください」
「本人たちが付き合い始めたら教えてくれ」
「先生は本当に黙っててください」




