第一話 空気を読まない俺、個性的すぎるクラスの担任になっちまった
それから一週間ほどが経った。始業式を迎えた四月上旬。
「続いて、この春本校に着任された先生方を紹介します。黒部大地先生。二年桜組の担任です」
促されるまま、俺は壇上へ上がった。
そこから講堂を見渡す。
女子、女子、女子、女子、女子、女子、女子、女子、女子、女子、女子、女子……。
着任初日に見た数の比じゃねえ。しかも明日の入学式で新入生まで加わる。
まだ増えるのかよ。
「黒部大地だ。よろしく」
俺は手短に挨拶し、なるべく講堂全体を見ないように一礼した。
拍手に混じって、「どう?」「あー。ちょっと無理」「なんかダサい」とか、ひそひそと話す声まで聞こえてきたが、俺は気にしないように元の位置へ戻った。
「黒部先生、式が終わったら被服室に来てください。そのジャージ、アイロンかけますよ。このまま教室に行くのは、女子校の先生としてさすがにまずいですから」
三宅先生が横から話しかけてくる。
「べつにいいだろ、このままで」
「よくないから言ってるんです。それに、今日みたいな式典の日くらい、他の先生みたいにスーツで来てください」
「前の学校じゃそんなこと言われたことねえや」
☆
始業式が終わると、生徒たちは新しいクラスへ。先生たちはそれぞれ担当するクラスへ向かっていった。
二年桜組の教室は三階の一番奥にある。俺は結局、三宅先生からの気遣いは断った。廊下を歩くだけで、女子生徒たちの視線がちらちらとこちらに向いているのがわかった。
「あの人が例の」
「男子校から来たっていう」
「なんか、ジャージだね」
例の、というのがどういう意味なのか、俺にはまだわからなかった。
教室の引き戸を開ける。最初に目に入ったのは、教室の空気の異様な密度だった。
窓際で長い黒髪を丁寧に整えている生徒がいる。姿勢がよく、所作の一つ一つに品があって、明らかに周囲から一歩浮いている。その隣で、金髪寄りの明るい茶髪の生徒が机に頬杖をついて、退屈そうにスマホを覗いている。ネイルは派手だが、机の上のノートはきっちり整頓されていた。
教室の中央付近では、小柄な生徒が缶バッジをじゃらじゃら鳴らしながら誰かに何かを熱弁している。少し離れた席では、明らかに身だしなみに気を遣っていそうな生徒が、鏡代わりにスマホのインカメラで前髪を直している。艶のあるセミロングの髪をきれいに巻き、薄いメイクまで隙なく整えていた。
その後ろでは、眼鏡をかけた三つ編みの生徒が、ノートに何かを熱心に書きつけていた。手元をちらりと見ると、相関図らしきものに矢印がいくつも引かれている。
理事長から聞いた話では、白百合ヶ峰学園は創立百年以上の歴史を持つ、いわゆる伝統あるお嬢様学校らしい。
ただ、少子化で学校同士の生徒獲得競争が激しくなり、共学化する女子校も増えていく中、この学園は女子校のまま生き残る道を選んだ。
その一環として、十年ほど前から校風を大幅に自由化したという。
結果。ずいぶんとバラエティ豊かな生徒が集まる学校になったらしい。
なるほど。目の前を見る限り、理事長の説明に嘘はなさそうだった。
教壇の前に立って、黒板の縁に手をかけたまま、俺はしばらく声を出せなかった。
情報量が多い。単純にそう思った。男子校にいた頃は、教室に入れば大体誰が寝ていて誰が騒いでいるかで空気を把握できた。しかしここは違う。それぞれが完全に独立した世界を持っていて、その世界同士が同じ教室の中でぶつからずに共存している。
委員長らしき黒髪ショート、ややつり気味の目の生徒だけが、姿勢よく席に座って静かにこちらを見ていた。彼女とだけ、ふっと目が合う。
「起立」
その一声で、教室の空気が瞬時に切り替わった。慣れた動作で全員が立ち上がる。統率が取れているところを見ると、少なくとも荒れているクラスではないらしい。それだけは少し安心材料だった。
「気をつけ、礼」
「よろしくお願いします」
揃った挨拶が返ってくる。腰を下ろす音がいっせいに響いて、また教室が静かになった。
そのあと俺は、黒板に自分の名前を書いた。
そして――冒頭の、あの自己紹介に至ったわけだ。
しかも、生徒たちの反応はそれだけでは終わらなかった。
「名前は知ってる。始業式で言ってたし」
「先生、白崎先生と担任代わってー!」
「松組ずるい!」
「白崎先生がよかったー!」
「学年始まって初っ端から担任に言うことじゃねえだろ、それ」
俺が呆れて言い返すと、教室のあちこちから笑い声が上がった。担任への遠慮というものは、どうやら最初から期待しない方がよさそうだ。
「先生ピクスタは?」
「ねえ」
「Clip Tokは?」
「やってねえ」
「BEEN Realは?」
最後の質問だけ、意味がわからなかった。
「何がリアルなんだ?」
教室が一瞬静まり返り、そのあとどっと笑いが起きた。
「先生、それガチで知らないんですか?」
「知らねえよ」
「え、うそでしょ」
「なんで俺が嘘つく必要があるんだ」
「先生、化石ですか?」
化石。その単語が、なぜか妙に重く胸に刺さった。どうやら俺は、今どきの女子高生文化というものを、想像以上に何も知らないらしい。
やたら目立つ金髪の生徒――手元の座席表によれば、星川ミウというらしい。その子が机に肘をついたまま、こちらをじっと見ていた。
「先生、それ全部本気で分かってないの?」
「わからねえもんはわからねえ」
「偏見えぐ」
偏見も何も、まだ何も言っていない。しかし言い返す暇もなく、次の質問が飛んでくる。
「先生、推しはいますか?」
声をかけてきたのは、缶バッジをじゃらじゃらさせていた小柄な生徒だった。
「推し? 押し売りか?」
教室が完全に静まった。
誰かがぼそりと呟いた。
「マジで言ってる……」
「ガチのやつだ」
「先生、無理。無理すぎる」
俺はまだ何が起きたのか完全には理解していなかったが、少なくとも自分がとんでもなく異質な場所に足を踏み入れたことだけは、はっきりとわかった。
窓際に座っていたロングの黒髪の生徒は、口元だけで小さく笑いながら、こちらをまっすぐ見ていた。品のある微笑みの奥に、何か面白いものを見つけたような光がちらついている。
「黒部先生」
「なんだ」
「わたくしたち、しっかり鍛えて差し上げますわ」
どこか楽しそうな声だった。周りの生徒たちが、一斉に頷く。
その日のうちに、俺は校内SNSで「令和に存在する化石教師」として話題になっていたらしい。
それを知ったのは放課後、授業を終えて職員室へ戻った時のことだった。
俺を待っていたのは、理事長だった。白髪を上品に結い上げた小柄な老婦人が、職員室の中央に立っていた。小柄な体格とは裏腹に、目つきだけはとても六十八歳とは思えないほど鋭い。
「黒部先生。初日から、なかなか派手にやってくれましたね」
「すみません」
「謝る必要はありません。むしろ、狙い通りです」
理事長――百合草藤子は、口元に小さく笑みを浮かべた。
「そういえば、黒部先生」
声をかけてきたのは、俺と同じくらいの背丈の男性教師だった。
歳も俺と同じ二十九らしいが、見た目の差はだいぶある。整った顔立ちに、きちんとセットされた黒髪。白衣まで妙に様になっている。
理科担当で、主に化学と物理を教えている。隣の二年松組の担任――白崎先生だ。
「何ですか。朝から俺と担任代われって、生徒に言われた白崎先生」
「……もうそんなこと言われたんですか」
「人気者は大変だな」
「黒部先生、全然そう思ってないでしょう」
白崎先生は困ったように笑ってから、声を少し落とした。
「三月のクラス替え会議で、二年桜組は『動物園みたいなクラスになりそうだ』って話してたんですよ。個性の強い子が、ずいぶん集まりましたから」
白崎先生は桜組の方角をちらりと見た。
「前の男子校でも、俺の受け持ってたクラスは動物園って呼ばれてたんですよ」
「そうなんですか?」
「あっちは授業中に消しゴムが飛んで、休み時間にプロレスが始まる方の動物園でしたけど」
教師たちが、なんとも言えない顔になった。
「……ここの動物園とは種類が違いますね」
白崎先生が苦笑した。
「俺も今日一日でそう思いました。あっちは猛獣と猿。こっちは草食みたいな」
「僕は普通の子が多い松組でホッとしました。桜組に当たらなくて、ああ、よかったと」
「それ、うちのクラスの奴らに言っていいか?」
「もちろんダメです」
理事長だけが、なぜか楽しそうに笑っていた。
「ふふ、なるほど。元男子校の距離感は、うちの生徒たちには通用しませんでしたか」
「正直、まだ全然わかりません」
すると白崎先生が、苦笑しながら口を挟んだ。
「僕は新任の頃からこの学校にいて、今年で八年目になりますが、未だに雰囲気には慣れないですね」
「そんなにいて慣れないのかよ」
「慣れたと思った頃に、また新しいことが起きるんですよ」
「それ聞いて安心していいのか、不安になればいいのかわからねえな。桜組の生徒は、前いた男子校の奴らと真逆で暴れるわけじゃないんですが……最初から分厚い壁を作られているような感覚です」
「お行儀が良い分、内側には簡単に踏み込ませないんですよ。だから他の先生方も、慎重な態度になってしまう。最近の先生方は、生徒に嫌われることを怖がりすぎているんです」
理事長のその言葉の意味を、このときの俺はまだよくわかっていなかった。




