第三十話 学校のイメージって誰のものですか?
夏休みまであと十日あまりに迫ったその日の放課後。職員室に、緊迫した空気が流れていた。理事長を交えた会議が、正式に開かれることになったのだ。俺と九条先生は、会議室へと続く廊下を、無言のまま並んで歩いていた。
「黒部先生」
九条先生が、廊下の途中でふと足を止めた。
「今日の会議、感情的にならないでいただけますか」
「なんでですか」
「先生が天城さんを守りたいと思う気持ちは、私も理解しています。ですが、感情論だけでは、理事長も他の教師も説得できません」
その言葉には、これまでの九条先生からは感じたことのない、切迫したものが滲んでいた。
会議室に入ると、すでに理事長の百合草藤子と、篠田先生をはじめとした数名の教師が席についていた。俺と九条先生も、指定された席に腰を下ろす。
「それでは、天城リリアさんの件について、今後の対応を検討したいと思います」
九条先生が、会議の口火を切った。事前にまとめていた資料を配りながら、経緯を淡々と説明していく。動画の拡散状況、学校名の特定、寄せられた苦情の内容。すべてが、思っていた以上に深刻な状態にあることを、改めて突きつけられる形になった。
「これらの状況を踏まえ、学校としては、天城さんのSNS活動を一時的に停止することを提案します」
九条先生の言葉に、俺は思わず口を挟んだ。
「ちょっと待ってください。天城は何も悪いことしてないんですよ」
「それは承知しています」
九条先生は俺の方を見て、話を続けた。
「ですが、事実がどうであれ、現状として、学校のブランドイメージが著しく毀損されつつあります。これ以上の拡散を防ぐためには、一旦、活動を停止する以外に、有効な手立てが見当たりません」
「守るって言いながら、本人から何も取り上げるなって話じゃないですか」
俺は思わず語気を強めた。
「活動を止めるってのは、リリアから、一番大事にしてきたものを取り上げるってことですよ。それのどこが守るってことになるんですか」
「黒部先生」
九条先生の声のトーンが、わずかに硬くなった。
「先生は、天城さんが今、どれほどの誹謗中傷を受けているか、把握されていますか」
「知ってます。それでも」
「では、これ以上、彼女を晒し続けることが、本当に彼女のためになるとお考えですか」
その問いに、俺は一瞬、言葉に詰まった。九条先生は続けた。
「活動を停止するというのは、決して罰ではありません。今、天城さんの周りには、彼女を攻撃したい人間が、大量に集まっている状態です。そういう状況の中で、彼女が投稿を続ければ続けるほど、新たな攻撃材料を与えることにもなりかねません」
「それは……」
「私は、天城さんを守りたいという気持ちにおいては、黒部先生と何ら変わりありません。ただ、守り方の形が違うだけです」
九条先生の言葉には、これまでにない切実な響きがあった。俺はしばらく、何も言い返せずにいた。
「先生方」
それまで黙って様子を見ていた理事長が、口を開いた。
「黒部先生の仰ることも、九条先生の仰ることも、どちらも一理あると思います」
全員の視線が、理事長へと集まった。
「本人の意思を無視して、活動を奪うことは、確かに酷なことでしょう。しかし、今のまま何もせず、彼女を炎上の中に置き続けることもまた、酷なことです」
理事長はゆっくりと、俺たち一人一人の顔を見渡した。
「大事なのは、彼女自身がどうしたいかを、まず確認することではありませんか」
その言葉に、俺は少し虚をつかれた。九条先生も、わずかに表情を変えていた。
「本人の意思を、確認せずに」
理事長は続けた。
「学校側の都合だけで決めてしまうのは、いささか性急ではないでしょうか」
「しかし理事長」
篠田先生が口を挟んだ。
「これ以上、状況が悪化すれば、学校全体の評判に関わります。本人の意思を尊重するあまり、対応が遅れれば、取り返しのつかないことになりかねません」
「それも一理ありますね」
理事長はゆっくりと頷いた。
「ですから、今日この場で結論を出すのではなく、まず天城さん本人と、しっかり話す機会を設けるべきだと思います。黒部先生、あなたが適任でしょう」
突然の指名に、俺は少し戸惑った。
「俺が、ですか」
「あなたは、生徒本人の話を聞くことに、他の先生方より長けていらっしゃるようですから」
理事長は、どこか試すような目で俺を見た。
会議はその後、天城リリア本人との面談を経てから、改めて方針を決定するという形で、一旦保留となった。俺は会議室を出た後、廊下で九条先生と二人きりになった。
「九条先生」
「なんでしょうか」
「さっきは、感情的になっちまってすみませんでした」
九条先生は少し驚いたような顔をした後、小さく息を吐いた。
「いえ、黒部先生の仰ることも、間違ってはいないと思います」
「でも、俺のやり方だけが正解じゃねえってことも、わかった気がします」
九条先生は、廊下の窓から差し込む夕方の光に目を細めながら、冷静に言った。
「私も、生徒を守りたいという気持ちにおいては、先生と同じです。ただ、教師という立場は、時に、生徒の望むことと、生徒にとって本当に必要なことの間で、判断を迫られることがあります」
「その判断、簡単には出せねえですよね」
「はい。だからこそ、慎重にならざるを得ないのです」
九条先生はそう言うと、少しだけ表情を緩めた。
「先生のように、迷わずまっすぐ本人の意思を優先しようとする姿勢は、時に必要なことだと、私も思います。ただ、その分、周りが見えなくなることもあるということは、覚えておいていただきたいです」
その言葉には、批判というよりも、忠告に近い響きがあった。俺は素直にそれを受け止めることにした。
その日の夜。
自宅に戻ってからも、九条先生の言葉が、頭から離れなかった。
『これ以上、彼女を晒し続けることが、本当に彼女のためになるとお考えですか』
冷蔵庫から適当に取り出した麦茶をコップに注いで、俺は一人、狭い台所の椅子に腰を下ろした。
「……わかんねえよ」
誰に言うでもなく、そう呟く。
天城は悪くない。それだけは、はっきりしている。切り取られた動画が勝手に広がって、知らない連中から好き放題に言われている。そんな理不尽な理由で、あいつが好きで続けてきた活動を取り上げられるなんて、おかしい。だから俺は、会議でもそう言った。間違ったことを言ったつもりはない。
でも。
『活動を停止するというのは、決して罰ではありません』
九条先生の声が、また頭の中に蘇る。
もし。もし俺が天城に、
「お前は悪くない。続けたいなら続けろ」
そう言ったとして。そのせいで炎上がもっとひどくなったら。学校名だけじゃなく、住所や家族まで特定されたら。今よりもっと酷い言葉を浴びせられて、あいつが学校にも来られなくなったら。その時、俺は同じことを言えるのか。
「本人がやりたいって言ったから」
それで済ませるのか。教師である俺が。
俺はコップを持ったまま、しばらく動けなかった。
これまで、生徒本人の気持ちを聞けば、大体どうにかなった。
玲華には、自分がどうしたいのか聞いた。
ひなたには、推し以外に何が好きなのか一緒に探した。
千紘には、一人で抱え込まず周りを頼れと言った。
俺はずっと、生徒自身の答えを尊重することが、一番大事なんだと思ってきた。
でも。本人が望んだことなら、教師は何でも背中を押していいのか。
本人が「大丈夫」と言ったら、本当に大丈夫なのか。危ないとわかっていても、本人の意思だからと送り出すのが、正しいのか。
「……めんどくせえな、教師って」
思わず頭をかいた。男子校にいた頃は、こんなことで悩んだ記憶はほとんどない。喧嘩したら止める。提出物を出さなかったら怒る。進路に悩んでいたら話を聞く。大体、それで済んでいた。でも今は違う。止めることが守ることなのか。続けさせることが守ることなのか。
どっちを選んでも、間違う可能性がある。
俺はスマホを手に取った。
何気なく画面を開く。
また天城の件を検索しかけて、指を止めた。
もう何度見ても同じだ。数字が増えている。批判が増えている。
それを確認したところで、俺に正解がわかるわけじゃない。
スマホを伏せる。
静かになった部屋の中で、今度は理事長の言葉を思い出した。
『大事なのは、彼女自身がどうしたいかを、まず確認することではありませんか』
「……どうしたいか、か」
俺はそこで、ようやく気づいた。
そういえば。俺はまだ、天城本人にそこを聞いていない。活動を止めさせるべきじゃない。
俺はずっとそう主張してきた。
でもそれは、天城が続けたいはずだと、俺が勝手に思っていただけじゃないのか。
あいつは何度も「怖い」と言っていた。
活動を辞めなきゃいけないのか、とも言っていた。
でも。本当に続けたいのか。一度休みたいのか。もう辞めたいのか。それを、俺はまだ聞いていなかった。
「俺も、人のこと言えねえじゃねえか」
九条先生は学校の都合で天城のことを決めようとしている。そう思って腹を立てていた。
でも俺だって、「天城なら続けたいに決まってる」と決めつけていたのだとしたら、大して変わらない。
教師だから。担任だから。生徒のことをわかっているつもりになっていただけかもしれない。俺は椅子の背にもたれた。止めるべきなのか。続けさせるべきなのか。答えはまだわからない。ただ、一つだけわかった。
「最初から、俺が決める話じゃねえのか」
まず聞くべきなのは、天城本人だ。続けたいのか。休みたいのか。それとも辞めたいのか。
その答えを聞いてから、危険があるならどう減らすか考えればいい。
「……簡単じゃねえな」
俺は机の上のスマホを伏せた。
明日、天城に聞こう。あいつ自身が、どうしたいのか。




