第二十七話 適切な距離って、何メートルですか?
その日の昼休み、俺は九条先生から呼び出しを受けた。
「黒部先生、少しお時間よろしいでしょうか」
その声には、いつもの落ち着いた響きの中に、わずかな硬さが混じっていた。空いていた面談室に通されると、九条先生は一枚の書類を俺の前にそっと差し出した。
「保護者から、こういった連絡がございました」
書類に目を通すと、そこには「二年桜組の女子生徒同士の距離感について、いささか行き過ぎているのではないか」という趣旨の指摘が、丁寧な文面で綴られていた。
以前、駅前のカラオケ店やファミレスで、桜組の生徒たちが肩を寄せ合ったり、腕を組んだりしている姿を見かけたこと。六月初めの文化祭でも、抱擁や膝枕など、距離の近い様子を目にしたこと。そしてその後も、学外で同じような姿を何度か見かけたという。
そうした距離感が、伝統校である白百合ヶ峰学園の校風やブランドにそぐわないのではないか――という懸念が記されていた。
「これ、昔からずっとある女子校の日常だと思うんですけど」
「私も、そう思います。ただ、保護者の方の目には、いささか度が過ぎているように映ったようです」
九条先生は淡々とした口調で続けた。
「学年主任として、このまま放置するわけにもいきません。二年桜組に対して、何らかの指導を行う必要があると考えています」
「指導って、具体的には」
「席替えによって、過度に近しい生徒同士を、意図的に離すことを検討しています。あわせて、学校生活における適切な距離感について、クラス全体で改めて確認する時間を設けようと思います」
その言葉に、俺は思わず眉をひそめた。
「席替えって、それ、玲華とミウ、それからすみれと乃愛のことですか」
「具体的な生徒名は、あえて申しません。ですが、そういった意図が含まれることは、否定いたしません」
九条先生の説明は、教師としての立場からすれば、筋の通ったものだった。だが俺には、それがどうしても納得のいくものには思えなかった。
「距離感が近いのは、あの二組だけじゃねえですよ。このクラス全体が、そういう空気なんです。それを、無理やり引き離したところで、根本的な解決にはならねえと思います」
「では、黒部先生は、どうすべきだとお考えですか」
九条先生の問いに、俺はしばらく考えた。
「本人たちに、直接聞くべきだと思います。今の距離感が、本人たちにとって心地よいものなのか、それとも、周りに合わせて無理してるものなのか」
「それは、あまりに個別対応にすぎませんか」
「個別に話聞くのが、そんなにおかしいことですか?」
「おかしいとは申しません。ただ、今回の件は、クラス全体の問題として、学校側が対処すべき事案です。生徒一人一人の気持ちに寄り添うことは大切ですが、教師個人の裁量だけで進めるべきことではないと考えます」
九条先生の言葉には、これまで何度も感じてきた、規則と手続きを重んじる姿勢がはっきりと表れていた。
「適切な距離を保つべきだって、前にも言ってましたよね」
「はい」
「その適切って、何メートルなんですか?」
俺は初めて会った日と、同じ問いを繰り返していた。九条先生は、少しだけ表情を動かした。
「同じ質問を、また繰り返されるのですね」
「答え、もらってねえですから」
九条先生は、しばらく黙り込んでいた。窓の外からは、梅雨明け間近の湿った風が、微かに吹き込んでいる。
「適切な距離とは、決まった数値で測れるものではありません。ただ、生徒同士の関係が、周囲から見て健全であると、はっきり認識できる範囲を指しています」
「それ、周りがどう見るかって話であって、本人たちがどう感じてるかとは、別の話じゃねえですか」
「両方が大切なのです。学校という場所は、生徒本人の気持ちだけでなく、周囲との調和も、大事にしなければなりません」
俺と九条先生の議論は、平行線のまましばらく続いた。結局、その日は、双方の意見を持ち帰るという形で、話し合いを終えることになった。
放課後、俺は教室に戻り、生徒たちの様子を改めて眺めてみた。玲華とミウは、いつも通り並んで帰り支度をしていて、すみれと乃愛は少し離れた席で、こっそり何かを話し込んでいる。この距離感が、本当に問題なのだろうか。俺はしばらく、その問いを自分の中で反芻していた。
☆
週明け月曜日、九条先生は予定通り、クラス全体に向けて学校生活における「適切な距離感」についての指導を行うことになった。帰りのホームルームの時間、九条先生が教壇に立ち、丁寧な口調で話し始める。
「皆さんは、学校という公の場で過ごしている自覚を、今一度持っていただきたいと思います」
教室の空気が、少しずつ緊張したものに変わっていく。
「友人同士の親愛の表現は、決して悪いことではありません。しかし、それが行き過ぎると、周囲から見て、不適切に映ることもあります。今一度、自分たちの距離感を、見直してみてください」
その説明に、教室からは、控えめながらも不満げな空気が広がっていった。
放課後、玲華とミウが、少し戸惑った様子で話し合っていた。
「わたくしたち、そんなに変でしたの」
「変っていうか、なんか、急に言われても困るよね」
すみれと乃愛も、離れた席で、居心地悪そうに視線を交わしていた。
「私たち、何か悪いことしたんでしょうか」
「していないと、思うけど……」
☆
翌日の教室は、妙に静かだった。べつに、誰かが喧嘩をしているわけではない。授業中でもない。いつもの休み時間だ。なのに、何かがおかしい。俺は教壇の前で次の授業のプリントを整理しながら、しばらく教室の中を眺めていた。
最初に気づいたのは、玲華とミウだった。
「れーちゃん、これ」
ミウが玲華にスマホの画面を見せようとして、いつものように椅子を寄せる。
その瞬間、玲華がわずかに身を引いた。
「あ……」
ミウの動きが止まった。
「ごめん」
「い、いえ。ミウが謝ることではございませんわ」
二人の間に、不自然な隙間ができた。普段なら肩が触れるくらいの距離で一つの画面を覗き込んでいる二人が、今日は机一つ分近く離れている。
ミウはその距離のまま、スマホを玲華の方へ差し出した。
「見える?」
「少々、小さいですわね」
「だよね」
「ですが……仕方ございませんわ」
何が仕方ないのか。二人とも、それ以上は言わなかった。
少し離れた席では、すみれと乃愛が並んで話をしていた。いや。正確には、並ぼうとして、やめていた。
「佐々岡さん、昨日言ってた本なんですけど」
「はい」
すみれが一冊の文庫本を取り出し、乃愛の隣の席へ腰を下ろそうとする。
しかし途中で動きを止めると、わざわざ一つ離れた椅子を引いた。
「ここからでも、見えますか?」
「……たぶん」
二人は互いに身を乗り出すこともなく、妙に遠い位置から本を覗き込んでいる。
「読みにくくないか、それ」
俺が思わず声をかけると、二人が同時に顔を上げた。
「大丈夫です」
「大丈夫、だと思います」
「そうか?」
どう見ても大丈夫そうには見えなかった。さらに教室の中央では、ひなたが千紘のところへ駆け寄っていた。
「千紘ちゃん、聞いてください! 昨日、駅前でめちゃくちゃ可愛い限定グッズ見つけて――」
いつもの勢いで背中に抱きつこうとして。
ぴたりと止まった。宙に浮いた両腕を、そのまま所在なさそうに下ろす。
「……どうしたの?」
千紘が振り返る。
「いや、その」
ひなたは周囲をちらりと見回した。
「これも、距離近すぎるのかなって」
千紘は一瞬、何も言えなかった。
「べつに私は気にしないけど」
「でも、昨日、九条先生が」
「そうだけど……」
二人とも困ったように黙り込んだ。その近くでは、別の生徒同士が腕を組もうとして、途中でやめている。誰かが隣の席に座ろうとして、一度周りを確認する。
いつもなら何の意味も持たなかった仕草一つ一つに、全員が妙に意識を向けるようになっていた。誰も規則を破っていない。誰も騒いでいない。誰も叱られるようなことをしていない。
なのに。昨日までより、明らかに教室の空気が重い。
「先生」
千紘が俺のところへやってきた。
「私たち、どうすればいいんでしょうか」
「どうすればって?」
「どこまでなら、普通なんですか?」
俺は答えられなかった。
「腕を組むのは駄目なんですか。肩にもたれるのは? 手を繋ぐのは?」
「それは……」
「昨日の話を聞いてから、みんな、何をしたら注意されるのかわからなくなってるんです」
千紘は困ったように教室を振り返った。
玲華とミウは、まだ離れたままだった。
すみれと乃愛も、不自然な距離を保っている。
ひなたに至っては、普段なら誰かの肩にくっつきながら話しているはずなのに、今日は自分の席に大人しく座っていた。
静かで。行儀がよくて。教師から見れば、たぶん昨日より「正しい」教室だった。
なのに俺には、昨日よりずっと不健全に見えた。
「……変だな」
思わず声に出た。
「え?」
「いや」
俺は首を振った。九条先生の言っていたことが、全部間違っているとは思わない。学校は公共の場所だ。周りからどう見えるかを考えることも、必要なのだろう。
だけど。誰かに迷惑をかけていたわけでもないこいつらが、昨日まで当たり前にしていたことを、一つ一つ怖がるようになる。
それが本当に「適切」なのか。俺には、どうしてもそうは思えなかった。
☆
放課後になっても、その違和感は消えなかった。
玲華とミウは、いつもより少し離れて帰り支度をしている。
「ミウ」
「なに?」
玲華が何か言いかける。それから一度、周囲を確認した。
「……なんでもございません」
「そ」
ミウも、それ以上は何も聞かなかった。
その光景を見た瞬間、俺は立ち上がった。
やっぱり、このままにはしておけない。
「どこ行くんですか、先生」
千紘が聞いた。
「九条先生んとこ」
「また喧嘩するんですか?」
「話し合いだ」
「先生が言うと、あんまり信用できません」
「失礼だな」
そう返しながら、俺は教室を出た。
少なくとも一つだけ、確かめたいことがあった。適切な距離っていうのは。こいつらが、こんな顔をする距離のことなのか。
☆
その日の夕方、俺は改めて九条先生のもとを訪ねた。
「九条先生、あの指導、生徒たちの反応、見てましたか」
「はい。困惑している様子でしたね」
「それ、狙い通りですか」
「いいえ。少し、行き過ぎた印象は否めません」
意外にも、九条先生自身が、その結果に対して、複雑な思いを抱えているようだった。
「私も、あの説明の仕方が、最善だったとは思っておりません」
「じゃあ、どうしたいんですか」
九条先生は、しばらく考え込んでいた。
「本音を申しますと、私自身、あの生徒たちの関係性が、決して悪いものだとは思っておりません。ただ、保護者からの指摘があった以上、学校として、何らかの対応を示さなければならなかったのです」
「対応を示すことと、生徒たちを傷つけることは、別の話じゃねえですか」
俺の言葉に、九条先生はしばらく目を伏せた。
「その通りかもしれません」
その素直な認めに、俺は少し驚いた。
「じゃあ、もう一回、話す機会もらえませんか。今度は、俺のやり方で」
「黒部先生のやり方、というのは」
「本人たちに、直接聞く。それだけです」
九条先生は、しばらく黙って俺の顔を見つめていた。
「わかりました。ただし、条件があります」
「なんですか」
「今回だけは、あなたのやり方を認めます。ですが、その結果がどうであれ、私にも、しっかりと報告してください」
「わかりました」
俺は、その条件を受け入れることにした。
翌日の放課後、俺は玲華とミウ、そしてすみれと乃愛を、それぞれ個別に呼び出した。
「東雲、星川」
教室に残った玲華とミウに、俺は率直に切り出した。
「お前ら、今の距離感、無理してるか」
二人は顔を見合わせた。
「無理、というのとは、違いますわ」
「あたしも、べつに、意識してこの距離感にしてるわけじゃないし」
「じゃあ、自然にこうなってるってことか」
「そうですわ」
「うん」
二人の即答に、俺はゆっくりと頷いた。
「じゃあ、周りにどう言われようと、それはお前らが決めたことじゃねえだろ。他人にとやかく言われて、無理に変える必要はねえと思うぞ」
玲華とミウは、少し驚いたような顔をした後、ゆっくりと表情を緩めた。
「先生、そう言っていただけると、なんか、安心します」
「あたしも」
次に、すみれと乃愛のもとを訪れた。
「高鳥、佐々岡」
「はい」
二人は少し緊張した面持ちで、俺の言葉を待っていた。
「今の距離感、無理してねえか」
すみれと乃愛は、しばらく顔を見合わせた後、それぞれ小さく頷いた。
「無理は、していないと思います」
「私も、そう思います」
「じゃあそれでいいだろ。周りがどう見るかより、お前ら自身がどう感じてるかの方が、大事だと思うぞ」
その言葉に、二人はほっとしたような表情を浮かべた。
☆
翌日の昼休み、俺は九条先生に、それぞれの生徒との対話の結果を報告した。
「みんな、無理して距離を保ってるわけじゃなかったです。自然にそうなってるだけで」
九条先生は、しばらく黙って報告を聞いていた。
「そうですか」
「保護者からの指摘は、確かに気にする必要はあると思います。でも、それを理由に、本人たちの自然な関係性まで、無理に変える必要はねえと思うんです」
九条先生はしばらく考え込んだ後、冷静に口を開いた。
「黒部先生」
「はい」
「私は、これまで、規則や手続きを重んじることが、生徒を守る最善の方法だと信じてきました」
「それは、間違ってねえと思いますよ」
「ですが、今回のように、規則を優先するあまり、生徒本人の気持ちを見落としてしまうこともあると、改めて気づかされました」
その言葉には、これまでの九条先生からは、あまり感じたことのない、率直な響きがあった。
「あなたのやり方は、危なっかしいですが」
九条先生は、そこで一度言葉を切った。
「無意味ではないようですね」
その一言に、俺は少し驚きながらも、素直に嬉しく思った。
「褒められてる気がしねえですけど、ありがとうございます」
「褒めているのですよ、これでも」
九条先生は、珍しく小さく微笑んだ。
「今後、保護者への説明については、私の方で改めて対応いたします。生徒たちの自然な関係性を、無理に変える必要はないと、私からも、しっかりお伝えします」
「お願いします」
その日の放課後、教室に戻ると、玲華とミウ、すみれと乃愛が、それぞれいつも通りの様子で過ごしていた。教室の空気は、数日前の張り詰めたものから、すっかり元通りの、賑やかなものに戻っている。
「先生、あの後、どうなったんですか」
千紘が、心配そうに聞いてきた。
「もう、変な指導はねえよ。お前らの好きなようにしてろ」
「よかった……」
千紘は、心底安堵したような表情を浮かべた。
夕方、俺は職員室に戻る途中、廊下で九条先生と、偶然すれ違った。
「九条先生」
「なんでしょうか」
「適切な距離って、結局、何メートルなんですか」
同じ問いを、俺はもう一度繰り返した。九条先生はしばらく考えた後、冷静に答えた。
「数字では、測れないのかもしれませんね」
「それ、初めて聞く答えですね」
「あなたのおかげで、少し、考えが変わりました」
その言葉には、これまでのやり取りの中で、少しずつ育まれてきた、確かな信頼のようなものが感じられた。




