第二十六話 推している人が、隣にいる
六月下旬、期末テストを間近に控えたある日の放課後、俺は教室に残って明日の授業準備をしていた。すると、廊下からすみれの声が聞こえてきた。
「佐々岡さんって、最近何か、雰囲気変わりましたよね」
声をかけられていたのは、千紘だった。
「そう? 私はあんまり気づかなかったけど」
「なんというか、言葉の端々に、聞き覚えのある癖があるような気がして」
すみれの声には、どこか探るような響きがあった。俺はさりげなく教室の入り口付近に留まりながら、その会話を耳に入れていた。
「例えば?」
「佐々岡さん、この前、『それさっきも言ったでしょ』って、ちょっと素っ気ない口調で言ってたことがあって。あれ、猫ヶ崎ノノさんの口癖にそっくりなんです」
千紘は特に気にする様子もなく答えた。
「気のせいじゃない?」
「そうかもしれないんですけど……」
すみれの声には、まだ何か引っかかっているような余韻が残っていた。
☆
七月初め。期末テスト明け、教室にいつもの喧騒が戻ってきた頃、すみれの様子に、少しずつ変化が見え始めた。休み時間になると、すみれはさりげなく乃愛の近くに寄っていくようになり、何気ない会話の中で、乃愛の言葉遣いや仕草を、じっと観察するようになっていた。
「佐々岡さん、猫ヶ崎ノノさんの配信、見たことあります?」
その日の昼休み、すみれが唐突にそう尋ねた。乃愛の肩が、目に見えて強張った。
「え、あ、その、少しだけ」
「あの人、面白いですよね。毒舌なのに、時々すごく優しい瞬間があって」
「そう、ですね」
乃愛の返事は、明らかにぎこちなかった。すみれはそれを見逃さなかったようだが、その時はそれ以上追及せず、話題を変えた。
☆
放課後、俺は教室を出ようとしたところで、乃愛に呼び止められた。
「先生、すみれちゃん、なんか、気づき始めてる気がします」
「そうか」
「どうすればいいか、わからないんです。このまま隠し通すべきなのか、それとも」
乃愛の声には、切実な迷いが滲んでいた。俺はしばらく考えてから、以前と同じ答えを返すことにした。
「決めるのはお前だ。ただ、隠し続けることに、お前自身が疲れてないか」
「……正直、疲れてます。すみれちゃんと話すたび、いつバレるか、ずっと不安で」
乃愛は俯いたまま、小さく呟いた。
「でも、本当のことを言う勇気も、まだ持てなくて」
☆
翌日、放課後の教室に、すみれと乃愛の二人だけが残っている場面に、俺は偶然居合わせることになった。忘れ物を取りに来ただけのつもりだったが、二人の様子があまりにも張り詰めていて、その場を離れるタイミングを失ってしまった。
「佐々岡さん」
すみれが、いつになく真剣な声で切り出した。
「私、ずっと気になってたことがあります」
「な、なんですか」
「猫ヶ崎ノノさんの声、佐々岡さんの声に、すごく似てるんです。加工されてても、話すリズムとか、間の取り方とか、そういう細かいところが、どうしても重なって見えて」
乃愛の顔が、一気に青ざめていった。
「気のせい、だと思います」
「本当に、そうですか?」
すみれの声には、確信めいた響きがあった。乃愛は何も答えられず、ただ震えるように俯いていた。
教室に、しばらく重い沈黙が流れた。窓の外からは、蝉の鳴き声が微かに聞こえてくる。
「佐々岡さん」
すみれがもう一度、呼びかけた。
「もし、もし本当にそうだとしても、私は、それを誰にも言うつもりはありません。ただ、佐々岡さんが一人で抱え込んでるなら、それは、ちょっとつらいんじゃないかって、思っただけです」
その言葉に、乃愛の肩が小さく震えた。
長い沈黙の後、乃愛はゆっくりと顔を上げた。目には涙が滲んでいる。
「……私です」
小さな、それでいてはっきりとした声だった。
「私が、猫ヶ崎ノノです」
すみれは、驚いた様子は見せなかった。むしろ、どこか安堵したような表情を浮かべていた。
「やっぱり、そうだったんですね」
「ごめんなさい、ずっと、隠してて」
「謝らないでください。佐々岡さんには、佐々岡さんの事情があったんだと思いますし」
乃愛はしばらく黙り込んだ後、堰を切ったように話し始めた。
「学校では、大人しくて、あまり目立たない自分でいることに、慣れてしまってました。でも配信では、思ったことを全部言えるんです。それが、私にとって、唯一の居場所でした」
「二つの自分を、使い分けてたんですね」
「はい。それが、混ざり合うのが怖かったんです。学校のみんなに、配信の私を知られたら、きっと引かれると思ってました」
すみれはしばらく考え込むような表情を見せてから、穏やかな声で打ち明けた。
「私、猫ヶ崎ノノさんのこと、ずっと応援してきました。毒舌なのに、視聴者に対する優しさが滲み出てて、そのギャップに、すごく惹かれてました」
乃愛は涙を拭いながら、すみれの言葉に耳を傾けていた。
「でも、正直に言うと、今、少し混乱してます」
「混乱、ですか」
「私が好きだったのは、猫ヶ崎ノノというキャラクターだったのか、それとも、その中身にいる佐々岡さんだったのか、わからなくなって」
すみれはそう言いながら、自分の言葉を確かめるように、ゆっくりと続けた。
「ノノさんの毒舌の裏にある優しさとか、視聴者への気遣いとか、そういうものに惹かれてたんだと思ってました。でも今、目の前にいる佐々岡さんを見て、思うんです」
すみれは一瞬、言葉を止めた。
「ノノだから好きだったんじゃなくて、乃愛ちゃんだから……」
そこまで言いかけて、すみれは自分の言葉にはっとしたように、口をつぐんだ。頬が、みるみる赤く染まっていく。
「い、今のは」
「乃愛ちゃん、って」
乃愛が呆然とした様子で、すみれの言葉を繰り返した。
「あ、あの、今のは、その……」
すみれは慌てて言い訳しようとしたが、うまく言葉が出てこない様子だった。
「今、乃愛ちゃんって言いました?」
「い、言ってません」
「言いましたよね」
「幻聴です」
「幻聴のわけないじゃないですか」
乃愛は涙を拭きながら、それでもどこか嬉しそうな表情を浮かべていた。二人のやり取りを見ていた俺は、思わず教室の入り口で気配を消していた。
すみれは真っ赤な顔のまま、それでも観念したように小さく頷いた。
「はい、言いました。乃愛ちゃんって、呼びました」
乃愛の目から、また新しい涙がこぼれ落ちた。今度は、先ほどまでとは違う種類の涙のようだった。
「私、ずっと、自分を知らずに応援してくれるすみれちゃんのこと、少し寂しく思ってました。でも、今、本当の私を知った上で、それでも乃愛ちゃんって呼んでくれて」
「乃愛ちゃんは、乃愛ちゃんですから。猫ヶ崎ノノさんであっても、なくても」
その言葉に、乃愛は堪えきれずに泣き崩れた。すみれはそっと隣に座り、乃愛の肩に手を添えていた。
窓の外では、夏の夕暮れが、教室いっぱいに橙色の光を投げかけていた。二人の影が、その光の中で、少しだけ寄り添うように重なっていた。
☆
翌日から、教室で交わされる二人の呼び方が、変わったことに気づいた。
「佐々……」
すみれが以前のように呼びかけようとして、途中で言い直す。
「乃愛、ちゃん」
「はい、すみれちゃん」




