第二十五話 教室では言えないこと
六月下旬のある日、放課後の教室に忘れ物を取りに戻った俺は、思わぬ場面に出くわすことになった。
誰もいないはずの教室の隅、乃愛が一人、机に向かってタブレットを操作していた。イヤホンをつけていて、俺が入ってきたことにまったく気づいていない。
画面には配信用の設定画面らしきものが表示されていて、乃愛はマイクの音量を調整しながら、小声で何かを呟いていた。
「──こんばんは、猫ヶ崎ノノです。今日の配信は──」
その声色が、いつもの乃愛のふわふわとした喋り方とはまったく違っていた。低めのトーンで、テンポも速い。俺はその瞬間、教室のドアの前で完全に固まってしまった。
乃愛がふと顔を上げて、俺の存在に気づいた。
「――っ!」
タブレットを慌てて閉じようとして、その拍子に机の上のペンケースを落としてしまう。イヤホンが外れて、床に転がった。
「せ、先生……」
乃愛の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「いつから、そこに」
「今来たとこだ。忘れ物取りに来ただけで」
「聞いて、ました、よね」
乃愛の声は震えていた。俺はゆっくりと教室に入り、乃愛の前まで歩いていった。
「猫ヶ崎ノノって、あのVTuberか」
乃愛は答えなかった。ただ、両手で顔を覆って、机に突っ伏してしまった。
「終わった……」
くぐもった声が漏れる。
「終わったって、何がだよ」
「先生が知ったってことは、いずれ学校中に広まります。そうなったら、私……」
乃愛は顔を上げないまま、震える声で続けた。
「配信、辞めなきゃいけなくなります」
「なんでだよ」
「学校の規則で、無許可の芸能活動やSNS活動は届出が必要です。VTuberって、たぶんグレーゾーンだと思うんですけど、正体がバレたら、絶対問題になります」
乃愛の声には、切実な焦りが滲んでいた。
「私、猫ヶ崎ノノとしての活動、誰にも知られないようにずっと気をつけてきました。声も加工して、配信中は絶対に学校のこと話さないようにして。それなのに、先生に、こんな形で知られるなんて」
乃愛は顔を上げて、俺を真っ直ぐに見た。目には涙が滲んでいる。
「先生、お願いします。誰にも言わないでください。特に、すみれちゃんには絶対に」
その必死な様子に、俺はしばらく黙って考えていた。
「なんで、そんなに隠す必要があるんだ」
「だって……」
乃愛は言葉に詰まった。
「学校で見せてる私と、配信での私、全然違います。もし正体がバレたら、みんな、びっくりすると思います。学校の乃愛と、配信の猫ヶ崎ノノが、あまりにも違いすぎて」
「そんなの、隠す理由にはならねえだろ」
「先生には、わかりません」
乃愛は俯いたまま、小さく首を振った。
「学校では、大人しくて、あまり目立たない乃愛でいることに、慣れてしまいました。でも配信では、思ったことを全部言えるんです。誰かに気を遣うことなく、自分の言いたいことを、自分の言葉で言える。それが、私にとって、唯一の居場所なんです」
「二つの自分を、使い分けてるってことか」
「そうです。学校の乃愛は、周りに合わせるのが得意な、大人しい生徒。配信の猫ヶ崎ノノは、遠慮なく本音を言える、もう一人の自分。この二つが、混ざり合うのが怖いんです」
俺は乃愛の言葉を、しばらく反芻していた。学校で見せる顔と、それ以外の場所で見せる顔が違うのは、乃愛に限った話ではないのかもしれない。玲華だって、庶民文化への好奇心を隠していたし、リリアだって、投稿の裏では疲れ切っていた。
「なあ」
「はい」
「お前、悪いことしてんのか、その配信で」
「悪いこと、ですか」
「誰かを傷つけたり、犯罪紛いのことしたり、そういうこととか」
「い、いえ、そんなことは。ただ、視聴者さんのコメントに厳しめに返したりはしますけど、それも一応、節度は守ってるつもりです」
「じゃあ、べつに問題ねえだろ」
乃愛は驚いたように顔を上げた。
「悪いことしてねえなら、俺から言いふらす理由もない」
「本当に、ですか」
「約束する。俺からは誰にも言わねえ」
乃愛の目から、こらえていた涙がこぼれ落ちた。
「ありがとう、ございます……」
しばらく肩を震わせながら、乃愛は声も出さず泣いていた。俺は何も言わず、その様子を見守っていた。
少し落ち着いたところで、乃愛はぽつりと呟いた。
「先生、私、すみれちゃんにだけは、いつか本当のことを言いたいと思ってます」
「すみれに?」
「はい。すみれちゃん、猫ヶ崎ノノの配信、毎回欠かさず見てくれてるんです。コメントも、いつも的確で、優しくて」
乃愛の表情が、わずかに柔らかくなった。
「私、配信の私を応援してくれるすみれちゃんの言葉、いつも嬉しく読んでます。でも同時に、すみれちゃんは、猫ヶ崎ノノが私だって知らずに、応援してくれてるんです。それが、なんだか、少し寂しくもあって」
「素直な自分を、知らずに好きになってくれてる、ってことか」
「そうです。だから、いつか、本当の私を知ってもらいたいって思う気持ちもあるんですけど、同時に、知られたら嫌われるんじゃないかっていう怖さもあって」
乃愛の言葉には、複雑な感情が入り混じっていた。俺はしばらく考えてから、あえてシンプルに答えることにした。
「言うか言わねえかは、お前が決めることだ。ただ、今すぐじゃなくてもいい。焦る必要はねえだろ」
「はい……」
乃愛はゆっくりと頷いた。窓の外では、夕暮れの光が教室に長い影を落としていた。
「先生、今日のこと、本当にありがとうございました」
「べつにたいしたことしてねえよ」
「先生が、悪いことしてないなら問題ないって言ってくれたこと、すごく救われました」
乃愛はそう言って、少し照れくさそうに微笑んだ。その笑顔には、いつもの控えめな乃愛と、配信で見せる鋭い猫ヶ崎ノノの、両方の要素が少しだけ混ざっているように見えた。
乃愛が帰った後、俺は一人、教室に残った。
学校で見せる顔と、それ以外の場所で見せる顔。どちらも乃愛自身なのだろう。
なら、それをいつ、誰に見せるのかは乃愛が決めればいい。




