第二十四話 その正論、今は要らないです
六月下旬に入ってまもないある日。放課後の教室で、杏が珍しく机に突っ伏していた。
「松原」
「……なに、先生」
「具合悪いのか」
「べつに」
返事はいつも通りだった。だが、いつもの杏なら、放課後になればさっさと鞄を持って帰る。今日は机の上にスマホを伏せたまま、動こうとしない。
「バイトは?」
「今日はない」
「じゃあ、何してんだ」
「何も」
明らかに何かある。俺は杏の前の席を引いて、逆向きに座った。
「なんかあったのか」
「べつにないって」
「べつにない奴が、そんな顔するかよ」
杏がゆっくりと顔を上げた。
「どんな顔」
「めちゃくちゃ疲れてる顔」
「失礼」
「事実だろ」
杏は小さく息を吐いた。
窓の外では、梅雨の雲が低く垂れ込めている。今にも雨が降りそうな空だった。
「先生って、本当に空気読まないよね」
「今さらだろ」
「知ってる」
そこで会話が途切れた。俺はしばらく待ったが、杏は何も言わなかった。
「家のことか?」
杏の指が、ぴくりと動いた。図星だったらしい。
「この前、お前、バイト代の話してただろ。家に入れてるとか、そういう――」
「先生」
杏が遮った。声は穏やかだった。だが、はっきりとした拒絶があった。
「そこまで聞かないで」
俺は口を閉じた。
「悪い」
「……べつに、謝らなくていいけど」
杏は視線を机へ落とした。
「先生が心配して聞いてるのは、わかってる」
「なら――」
「でも」
杏は再び俺を見る。
「今、それ聞かれても困る」
思っていたより強い言葉だった。
「困る?」
「うん」
「話したくないってことか」
「それも今、聞かないで」
さらに止められた。俺は完全に言葉を失った。杏は少し困ったように眉を寄せる。
「先生、たぶん『お前はどうしたいんだ』って聞こうとしてるでしょ」
「……なんでわかった」
「先生、いつもそれだから」
否定できなかった。
「でも、どうしたいかなんて、わかんない時もあるから」
杏はぽつりと言った。
「自分でも整理できてないのに、『本音を言え』って言われても、出てこないものは出てこない」
「俺、本音を言えとは言ってねえぞ」
「言いそうな顔してた」
「顔で判断すんな」
「先生はわかりやすいから」
杏は少しだけ笑った。けれど、その笑顔はすぐに消えた。
「正しいこと言われても、今はしんどい時ってあるんだよ」
俺は何も返せなかった。正論を言ったつもりすらなかった。ただ、話を聞こうとしただけだった。それでも、聞かれること自体が負担になることもある。
「……わかった」
俺は席を立った。
「今日は聞かねえ」
「今日は?」
「明日も聞かねえよ」
「じゃあ、いつ聞くの」
「お前が話したくなった時」
杏が少し目を丸くした。
「それまで、俺からは聞かない」
「先生にしては、珍しい」
「うるせえ」
俺はそれだけ言って、教室を出た。
☆
職員室へ戻ると、俺は珍しく自分から三宅先生に話しかけた。
「今回は、何も聞けませんでした」
「松原さんですか?」
「ああ」
「何か悩んでたんです?」
「それも聞くなって言われた」
「じゃあ聞かない方がいいんじゃないですか」
「お前まで同じこと言うのかよ」
三宅先生は苦笑した。
「先生、今まで結構うまくいってましたからね。本人に直接聞くやり方」
「べつに、やり方として決めてるわけじゃねえけど」
「でも先生、生徒が悩んでたら、すぐ聞くじゃないですか」
「放っとけねえだろ」
「放っておくのと、待つのは違うんじゃないですか」
俺は黙った。
三宅先生は採点していたプリントから顔を上げる。
「話したくない時に話させるより、話したくなった時に聞いてあげた方がいいこともありますよ」
「……教師って面倒だな」
「今さら気づいたんですか」
「前の男子校、もっと単純だったんだよ」
「それ、生徒に言わないでくださいね」
「言わねえよ」
たぶん。
☆
それから三日間。俺は杏に何も聞かなかった。教室で顔を合わせれば普通に話した。授業中に当てることもあった。ただ、あの日の話だけはしなかった。
四日目の放課後。職員室へ戻ろうとしていた俺を、廊下の後ろから杏が呼び止めた。
「先生」
「ん?」
「ちょっといい?」
「なんだ」
杏は少し迷ってから言った。
「この前の話」
俺は黙って続きを待った。
「家のことなんだけど」
杏はそこで一度、息を吐いた。
「べつに、すごく大変とかじゃないから。心配しすぎないでね」
「おう」
「最近、家の出費がちょっと増えてて。それで、私もバイト増やした方がいいかなって考えてただけ」
「そうか」
「でも、増やしたら勉強の時間減るし、期末テストも近いし、どうするのが正解なのかわかんなくなって」
杏は困ったように笑った。
「だからあの日、『どうしたい』って聞かれても、本当にわからなかった」
「まだわからないのか」
「うん」
「じゃあ、わからないままでいいんじゃねえの」
杏がこちらを見た。
「先生、それでいいの?」
「知らん」
「知らんって」
「俺が答え決める話じゃねえだろ」
杏はしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑う。
「この前より、今日の方が話しやすい」
「何が違うんだよ」
「先生が、答え出そうとしてないからじゃない?」
「俺、いつも答え出してるつもりないんだけど」
「出そうとしてるよ」
「マジか」
「マジ」
少しショックだった。杏はそんな俺を見て、今度は少し楽しそうに笑った。
「でも、ありがと」
「何が」
「待っててくれて」
それだけ言って、杏は階段の方へ歩いていった。
俺はその背中をしばらく見送った。生徒が悩んでいるなら、話を聞けばいい。今までは、なんとなくそう思っていた。
だが。聞くことと、待つこと。たぶん教師には、どっちも必要なのだ。
そして、その使い分けをどうするのかは――。
「……全然わかんねえな」
誰もいない廊下で、一人呟いた。
まあ。少なくとも、何でもすぐ聞けばいいわけじゃない。
それくらいは、覚えておこうと思った。




