第二十三話 推しがいない私は何者ですか?
次の日。火曜日の朝、教室に入るなり、俺は異様な空気を感じ取った。
いつもは誰よりも元気に登校してくるはずのひなたが、自分の席で、まるで魂が抜けたような顔をして座っている。缶バッジのついた鞄も、いつもより力なく机の脇に置かれていた。
「ひなた、どうした」
声をかけても、返事がない。周りの生徒たちも、心配そうにひなたの様子を窺っている。
「先生、実は今朝、大変なことがあって」
委員長の千紘が、代わりに事情を説明してくれた。
「月風ルナさんが、活動休止を発表したんです」
「活動休止って」
「ひなたの推しです。今朝、公式から発表があったみたいで」
俺はひなたの席に近づいて、様子を窺った。彼女はスマホの画面を握りしめたまま、虚空を見つめている。画面には、声優兼アイドルの謝罪めいた文章が表示されていた。「一身上の都合により、しばらく活動を休止させていただきます」という一文が、俺の目にも飛び込んできた。
「ひなた」
声をかけると、ひなたはゆっくりと顔を上げた。目が真っ赤に腫れている。
「先生……ルナ様が、いなくなっちゃいました」
「いなくなったわけじゃねえだろ、休止しただけで」
「私にとっては、同じことです」
ひなたの声には、いつもの元気さがまるでなかった。
「私、毎日、ルナ様のことを考えて生きてきました。朝起きたら、ルナ様のSNS確認して、学校終わったら、ルナ様の動画見て、寝る前も、ルナ様のことを考えながら眠りについてました。それが、急になくなるって、どういうことなのか、わからないんです」
教室中の生徒たちが、心配そうにひなたを見守っていた。放課後、俺はひなたを呼び止めて、話を聞くことにした。
人気のなくなった教室、窓の外にはまだ梅雨の湿った空気が漂っている。ひなたは机に突っ伏したまま、力なく呟いた。
「先生、私、これから何をして生きていけばいいんでしょうか」
「大袈裟だな」
「大袈裟じゃないです。私の人生、ルナ様を中心に回ってたんです。学校行事とかバイトとか、全部ルナ様のライブとか、グッズ購入のスケジュールに合わせて組んでました」
ひなたはゆっくりと顔を上げて、俺を見た。
「推しがいない私って、何をすればいいんでしょう。何が好きで、何を楽しみに生きればいいんでしょう」
その問いには、俺もすぐには答えを出せなかった。しばらく黙って、ひなたの顔を眺めていた。
「お前、ルナ以外に、好きなことないのか」
「わかりません。考えたことないです。物心ついた頃から、ずっと何かを推してきましたし」
「今までも、何回か推し変とかしたことあるだろ」
「ありますけど、それは新しい推しがすぐに見つかったからです。今回は違います。次の推しなんて、考えられません」
「猫ヶ崎ノノはどうだ?」
ひなたが、ゆっくりと顔を上げた。
「……先生、前に一緒に動画見たの覚えてたんですか」
「お前らが教室で散々見せてきただろ」
「ノノちゃんは好きですよ。動画も面白いですし。でも、そういうことじゃないんです」
「違うのか?」
「好きな配信者と、推しは違います」
「その違いが俺にはまだわからん」
「先生には一生わからないかもしれません」
「そこまで言うか」
ひなたはほんの少しだけ笑ったが、すぐにまた机へ視線を落とした。
「それに今は、新しい推しを探したいわけじゃないんです」
その言葉に、俺もすぐには返せなかった。
どうやら、空いた場所に別の誰かを入れれば済むという話ではないらしい。
俺はしばらく考え込んだ後、思い切って提案してみることにした。
「じゃあ、今日は俺と付き合え」
「え?」
「推し以外に、お前が好きなもんとか、興味あるもんとか、一緒に探してやる」
☆
放課後、俺はひなたを連れて、近所の商店街を歩いてみることにした。特に目的地を決めず、ひなたの反応を見ながら、いろんな場所に立ち寄ってみる。
「お前、料理とか興味あるか」
「あんまり考えたことないです」
「じゃあ、この本屋、興味あるものあるか見てみろ」
商店街の古い本屋に入り、ひなたはしばらく棚を眺めていた。文芸書のコーナーで、ふと足を止める。
「これ、表紙、可愛いですね」
手に取ったのは、猫のイラストが描かれた小説だった。
「気になるなら読んでみればいいだろ」
「先生、私、こういう普通の小説って、あんまり読んだことないです」
「今から読んでみりゃいいじゃねえか」
ひなたは少し迷った末、その本を購入することにした。
その後、俺たちは近くの小さなカフェに立ち寄った。窓際の席に座り、ひなたは初めて訪れたような様子で店内を見回している。
「先生、こういうお店、あんまり来たことないです。いつも推しのグッズ屋さんばっかり回ってたので」
「たまにはこういうとこも悪くねえだろ」
ひなたは運ばれてきたケーキを、ゆっくりと味わっていた。その表情には、いつもの推しについて語る時の高揚感とは違う、穏やかさがあった。
「先生、私、今まで自分が何を好きなのか、あんまり考えたことなかった気がします」
「そうか」
「推し活してる自分が、ずっと当たり前だったので。推してる時が一番楽しいと思ってたし、それ以外の時間は、正直あんまり意識してませんでした」
ひなたはフォークを置いて、少し考え込むような表情を見せた。
「でも、今日、先生と色々見て回って、なんか、こういう時間も、悪くないなって思いました」
「無理に何か見つけようとしなくていいだろ。ゆっくり探せば」
「はい」
窓の外には、夕暮れの柔らかい光が差し込んでいた。ひなたは少しずつ、いつもの表情を取り戻していくように見えた。
☆
その日の夜、ひなたからメッセージが届いた。
『先生、今日はありがとうございました。楽しかったです。でも、やっぱり少し寂しいです』
昼間はあれだけ笑っていた。それでも、帰ればルナのグッズも、毎日見ていた動画もある。
そんな簡単に気持ちが切り替わるわけじゃない。
『そりゃそうだろ』
『他のことを楽しんだら、ルナ様のことを忘れようとしてるみたいで』
『忘れる必要ねえよ。寂しいなら寂しいままでいいし、他のこと楽しんでもいいだろ』
しばらくして、『……そういうものですか』と返ってきた。
☆
翌朝、教室に入ると、ひなたの鞄にはいつものルナの缶バッジがついていた。
「先生、昨日買った本、少し読みました」
「どうだった」
「まだ途中ですけど、続きは気になります」
「じゃあ読めよ」
「はい」
寂しさが消えたわけではない。ただ、それを抱えたままでも、別のものに手を伸ばせるようにはなったらしい。今は、それくらいでじゅうぶんなのかもしれなかった。
☆
二日後、金曜日。教室でひなたが友達と談笑している様子を、俺はふと目にした。
「ひなたちゃん、この前貸した漫画、どうだった?」
「めっちゃ面白かった! 続き貸してほしい」
いつもより落ち着いた口調で、友達との会話を楽しんでいる。以前は推しの話ばかりだったひなただが、今は友達との何気ないやり取りにも、しっかりと目を向けているようだった。
放課後、千紘がひなたの変化について、俺に教えてくれた。
「先生、ひなた、最近友達との時間も楽しめるようになってきてます」
「そうか」
「今までは、推し活のことしか頭になかったですけど、最近は普通に、私たちとの時間も大事にしてくれるようになった気がします」
その言葉を聞いて、俺は少しほっとした気持ちになった。
☆
夕方、教室に一人残っていたひなたに、俺は声をかけてみた。
「最近、どうだ」
「先生、実は」
ひなたは少し照れくさそうに、鞄から先日買った小説を取り出した。
「あの本、読み終わりました。すごく面白かったです。もっと同じ作者の本、読んでみたいなって思ってます」
「良かったじゃねえか」
「それに、友達との時間も、前よりちゃんと楽しめるようになった気がします。今まで、推しのことで頭がいっぱいで、周りのこと、あんまり見えてなかったんだなって」
ひなたはそう言って、少し晴れやかな笑顔を見せた。
「先生、ルナ様がいなくなって、正直今もまだ寂しいです。でも、それだけが私の全部じゃないんだって、少しわかった気がします」
「それでいいと思うぞ」
「はい」
窓の外には、梅雨の晴れ間が広がっていた。ひなたは鞄を持って、いつもより軽い足取りで教室を出ていった。




