第二十二話 東雲家の娘として、正しくあれ
翌日、水曜日。俺は教室に入るなり、玲華の様子がいつもと違うことに気づいた。
いつもは背筋をまっすぐ伸ばして席についているはずの玲華が、今日はどこか落ち着かない様子で、窓の外を何度も見やっている。手元に広げたノートには、文字がほとんど書き込まれていなかった。
「東雲、どうした」
「なんでもございません」
即答だったが、その声には明らかに張りがなかった。俺はそのまま朝のホームルームを進めたが、玲華の様子は一日を通して変わらなかった。
昼休み、いつもならミウと弁当を並べて食べているはずの玲華が、今日は箸をほとんど動かさず、ぼんやりと窓の外を見つめていた。
「れーちゃん、大丈夫?」
ミウが心配そうに声をかけると、玲華ははっとしたように顔を上げた。
「え、ええ、大丈夫ですわ」
「全然大丈夫そうじゃないんだけど」
「本当に、なんでもございません」
玲華はそう繰り返すばかりで、詳しい事情は語ろうとしなかった。ミウはしばらく玲華の顔を見つめていたが、それ以上は深く追及せず、黙って自分の弁当に視線を戻した。
☆
放課後、俺は職員室で書類仕事をしていたところ、玲華の保護者から学校宛てに一通の連絡が届いていることに気づいた。三宅先生が、たまたまその内容を目にしたらしく、少し複雑な表情を浮かべながら教えてくれた。
「東雲さんの家、今週末、ちょっとした集まりを予定してるみたいです」
「集まりって、なんの」
「詳しくは書かれてないですけど、他の名家の子息とのお顔合わせ、みたいな内容らしいです」
その言葉に、俺は思わず手を止めた。
「顔合わせって、それ、見合いみたいなもんか」
「そこまで大げさなものかはわかりませんけど、東雲家としては、そういう場を大事にしてるんだと思います」
三宅先生の説明を聞きながら、俺は今日の玲華の様子を思い出していた。あの落ち着かなさは、この件と関係があるのかもしれなかった。
翌日、俺は玲華を呼び止めて、それとなく話を切り出してみることにした。放課後の教室、窓の外には梅雨らしい湿った雨が降り続いている。
「東雲、今週末、なんか予定あるのか」
玲華の肩が、びくりと震えた。
「な、なぜそれを」
「学校に連絡来てただろ、家から」
玲華はしばらく黙り込んだ後、諦めたように小さく息を吐いた。
「先生には、いずれわかることでしょうね」
彼女は椅子に座り直して、窓の外を見つめながら、ゆっくりと話し始めた。
「今週末、実家で、他の名家のご子息との顔合わせが予定されております」
「見合いってことか」
「そう単純なものではございませんが、実質的には、そういう意味合いを持つものです」
玲華の声には、感情の起伏がほとんど感じられなかった。まるで、他人事のように、あるいは、あらかじめ受け入れることを決めてしまったかのような、乾いた調子だった。
「お前、それでいいのか」
「東雲家の娘として、務めを果たすことは、当然のことですわ」
その言葉は、これまで俺が何度も聞いてきた、玲華なりの模範解答だった。だが今回ばかりは、その言葉に、いつもとは違う重さが混じっているように感じられた。
「務めって、お前が決めたことじゃねえだろ」
「わたくしが、東雲家に生まれた時点で、決まっていたことです」
玲華はそう言い切ったが、その表情には、拭いきれない翳りが浮かんでいた。
☆
話を終えたあとも、玲華はしばらく教室に残っていた。
俺も教材を片付けながら、その様子を何となく気にしていた。彼女は普段の完璧な微笑みを崩さないまま、それでも机の下で、両手をきつく握りしめていた。
しばらくして、ミウが俺のもとにやってきた。
「先生、れーちゃんのこと、なんか知ってる?」
「なんでそう思うんだ」
「昨日から、なんか様子おかしいから。あたしが聞いても、はぐらかされるだけで」
ミウの表情には、隠しきれない不安が浮かんでいた。俺はしばらく迷ったが、玲華本人に許可を得たわけではなかったため、詳しい事情を語ることは避けることにした。
「本人から聞いた方がいいと思うぞ」
「そう言われても、聞いても教えてくれないんだって」
ミウは少し不満げにそう言いながら、教室の窓際に座る玲華の方を見つめていた。玲華はいつもの穏やかな微笑みを浮かべながら、それでもどこか、心ここにあらずといった様子だった。
顔合わせの予定を控えた金曜日、放課後の教室に、俺は玲華とミウの二人だけを見かけた。
「れーちゃん、今週末、なんか予定あるの?」
ミウが、思い切って直接切り出したらしかった。玲華は一瞬、答えに詰まった。
「その……家の用事です」
「家の用事って、どんな」
「言えません」
玲華のその返答に、ミウの表情が、明らかに強張った。
「なんで言えないの」
「言う必要のないことですわ」
「あたしにも?」
その一言に、玲華は言葉を詰まらせた。しばらく沈黙が続いた後、彼女は俯いたまま、小さく答えた。
「ミウに話しても、どうにもならないことですから」
「どうにもならなくても、聞きたいよ」
ミウの声には、いつもの気安さとは違う、真剣な響きがあった。玲華は逡巡した後、ようやく重い口を開いた。
「今週末、他の家のご子息との、顔合わせがございます」
その言葉を聞いた瞬間、ミウの表情が、はっきりと変わった。
「それ、見合いってこと?」
「そういう見方も、できるかもしれません」
「れーちゃん、それでいいの」
「東雲家の娘として、当然のことです」
玲華は、あの模範解答をもう一度繰り返した。しかしミウは、それを簡単には受け入れなかった。
「それ、れーちゃんが選んだことじゃないじゃん」
その一言に、玲華の表情が、大きく揺れた。
「わたくしは、東雲家に生まれた責任を、果たさなければなりません」
「責任とか、そういう話じゃなくて」
ミウは玲華の目を、まっすぐに見つめた。
「れーちゃんが、本当にそれでいいと思ってるのか、聞いてるんだよ」
玲華は、しばらく言葉を返せずにいた。窓の外に降り続く雨音だけが、教室に響いていた。
「わたくしの気持ちなど、関係ございません」
やっとの思いで絞り出したような、その声には、これまでの模範解答とは違う、震えるような響きがあった。
「関係あるよ」
ミウは即座に否定した。
「れーちゃんの人生でしょ。れーちゃんの気持ちが、関係ないわけないじゃん」
「ミウには、わかりません」
玲華の声に、初めてはっきりとした苛立ちが混じった。
「わたくしは、東雲家という枠の中で生きてきました。この家に生まれたということ自体が、わたくしの意思とは無関係に決まったことです。だから、その中でどう振る舞うかも、わたくしの意思だけでは決められないのです」
その言葉には、これまで積み重ねられてきた重圧の全てが、詰め込まれているように聞こえた。ミウはしばらく黙り込んでいたが、やがて穏やかに口を開いた。
「れーちゃん、それ、本当にあきらめてるの?」
「あきらめる、というより」
「もし、選べるなら、どうしたいの?」
その問いに、玲華は言葉を失った。ミウは、それ以上追及することなく、ただ黙って玲華の返事を待っていた。
長い沈黙の後、玲華は消え入りそうな声で呟いた。
「わかりません」
「わからないなら、わからないでいいよ。でも、あきらめる前に、ちゃんと考えてほしい」
ミウはそう言うと、鞄を持って教室を出ていった。玲華は、その後ろ姿を、しばらく呆然と見送っていた。
その日の夕方、俺は教室で、まだ座り込んだままの玲華を見つけた。
「東雲」
「先生……」
「ミウの言ってたこと、聞こえてた」
玲華は、ゆっくりと頷いた。
「先生も、わたくしに、同じことを聞くおつもりですか」
「聞くよ」
俺はためらわず答えた。
「お前は、本当に、どうしたいんだ」
その質問に、玲華はしばらく黙り込んでいた。窓の外の雨は、いつの間にか小降りになっている。
「わたくし、正直に申し上げますと」
玲華は、ゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。
「今回の顔合わせを、望んでいるわけではございません。まだ、恋愛のことも、結婚のことも、真剣に考えられる年齢ではないと、自分でも思っております」
「じゃあ、なんで受け入れようとしてるんだ」
「東雲家の娘として、こうした場を用意していただいたことに、応えなければならないと、そう思い込んでいたからです」
玲華の言葉には、これまでの人生で積み重ねられてきた、無数の「思い込み」の重みが感じられた。
「思い込みって、誰かに強制されたのか」
「明確に強制されたわけではございません。ただ、幼い頃から、東雲家の娘として、期待に応えることが当然だと、そう教えられて育ってまいりました」
俺はしばらく、玲華の言葉を聞いていた。
「東雲、お前、今の気持ち、家族に伝えたことあるか」
「ございません」
「なんでだよ」
「わたくしの意思を伝えることで、家族を失望させることになるかもしれないと、それが怖いのです」
その言葉には、玲華が背負ってきた重圧の本質が、はっきりと見えていた。
「失望させたくないから、自分の気持ちを黙って、我慢する。それが正しいことだと、お前は思ってんのか」
「正しいかどうかは、わかりません。ただ、そうする以外の方法を、知らないだけです」
俺はしばらく考えてから、冷静に言った。
「言わなきゃ、伝わらねえだろ」
「言った先に、何が待っているのか、想像もつきません」
「想像つかねえなら、なおさら、言ってみるしかねえだろ」
玲華は、しばらく俺の言葉を反芻するように、じっと黙っていた。
「東雲、今すぐ答え出す必要はねえよ。ただ、少なくとも、自分の気持ちくらいは、ちゃんと認めてやれ」
その言葉に、玲華はそっと目を伏せた。
「先生、わたくし、少し考える時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「好きなだけ考えろよ」
玲華は、深く頭を下げた。
☆
週末、俺はその後の展開を知ることはなかった。ただ、週明けの教室に現れた玲華の表情が、以前とは少し違って見えたことだけは、確かに感じ取ることができた。
「東雲、どうだった」
休み時間に声をかけると、玲華は、少し疲れたような、それでいて晴れやかな表情を浮かべていた。
「両親に、正直に申し上げました」
「なんて言ったんだ」
「今はまだ、そうした場を持つ心の準備ができていない、と」
玲華はそこで一度言葉を切った。
「……すぐに、わかっていただけたのか?」
「いいえ」
予想外の返事だった。
「父は、しばらく何も申しませんでした。母からは、『あなたは東雲家の娘なのですよ』と」
「やっぱり言われたか」
「はい」
玲華は苦笑した。
「いつものわたくしなら、そこで『承知しております』と答えていたと思います」
「でも、今回は違った」
「……はい」
玲華は膝の上で、そっと指を組んだ。
「初めて申し上げました。『承知しております。でも、それでも今は嫌なのです』と」
その言葉を口にするだけでも、相当な勇気が必要だったのだろう。
玲華の表情には、昨日までとは違う疲れが残っていた。
「父からは、東雲家の娘としての自覚が足りないのではないか、と聞かれました」
「なんて答えた」
「自覚はあるつもりです、と。ただ……」
玲華は少しだけ視線を落とした。
「東雲家の娘である前に、わたくし自身の人生でもあると思う、と」
俺は思わず黙った。数日前まで、「わたくしの気持ちなど関係ございません」と言っていた奴の言葉とは思えなかった。
「よく言えたな」
「震えましたわ」
玲華は、小さく笑った。
「本当に。自分でも情けないくらい、声が震えてしまって」
「べつにいいだろ。震えてても言えたんなら」
「……先生は、本当にそういうところ、単純ですわね」
「褒めてんのか、それ」
「半分くらいは」
玲華は少しだけ表情を緩めた。
「父も母も、すぐには納得してくださらなかったです。でも最後には、父が『そこまで言うのであれば、今回は見送ろう』と」
「怒られなかったのか」
「多少の落胆はあったと思います。ただ、無理強いはしないと約束してくださいました」
玲華は、そこで静かに息を吐いた。
「わたくし、ずっと怖かったのです」
「何が」
「自分の気持ちを口にしたら、東雲家の娘として認めてもらえなくなるのではないかと」
窓から差し込む朝の光が、玲華の横顔を柔らかく照らしていた。
「ですが、言ってみたら……全部が壊れるわけではございませんでした」
「そりゃそうだろ」
「先生には簡単なことなのでしょうね」
「簡単とは言ってねえよ」
俺は少し考えてから続けた。
「ただ、言わなきゃ絶対伝わらなかっただろ」
「……はい」
玲華は、今度は迷わず頷いた。
「この先も、こういう話がまた持ち上がるかもしれません。その時は、また同じように、自分の言葉で伝えようと思います」
その表情には、これまでにない、確かな芯の強さが感じられた。
その日の放課後、教室でミウが、玲華のもとに駆け寄っていくのが見えた。
「れーちゃん、どうなったの」
「先延ばしにしていただきましたわ」
「良かった……」
ミウは、心底安堵したように、大きく息を吐いた。
「あたし、正直、心配してたんだよ」
「心配、かけてしまいましたわね」
「当たり前じゃん。れーちゃんが、あんな顔で悩んでるの見て、心配しないわけないでしょ」
玲華は、少し照れくさそうに微笑んだ。
「ミウ、ありがとうございます。あなたの言葉があったから、わたくし、自分の気持ちに、向き合うことができました」
「べつに、あたし、たいしたこと言ってないよ」
「いいえ、たいしたことでしたわ」
玲華はミウの手をそっと握った。
「れーちゃんが東雲でも山田でも、れーちゃんはれーちゃんじゃん、って言ってくださった、あの言葉。ずっと、心の支えになっております」
その言葉に、ミウは少し照れくさそうに視線を逸らした。
「そういうこと、改まって言われると、なんか恥ずかしいんだけど」
「本当のことですもの」
二人のやり取りを、少し離れた場所から眺めながら俺は教室を後にした。




