第二十一話 れーちゃんと呼ぶ理由
その日の放課後。俺は職員室に戻る途中、渡り廊下でミウと玲華が並んで座っているのを見かけた。
二人とも帰る素振りを見せず、どこか懐かしそうな表情で何かを話し込んでいる。少し離れたところで様子を窺っていると、ミウがふと俺に気づいて手招きしてきた。
「先生、暇なら座れば」
「いいのか、俺が混ざって」
「べつに、隠すような話でもないし」
玲華も小さく頷いたので、俺は少し戸惑いながらも二人の隣に腰を下ろした。渡り廊下からは、雨上がりの校庭が見えて、水たまりに午後の光が反射していた。
「今、中学の時の話してたんです」
玲華が穏やかに切り出した。
「わたくしとミウが、初めて出会った頃の話ですわ」
「中学からの付き合いだって話は聞いてたけど、詳しくは知らねえな」
「話すの、ちょっと久しぶりだね」
ミウは少し照れくさそうに笑いながら、話を続けた。
「あたしとれーちゃん、中一の時、同じクラスだったんだけど、最初は全然接点なかったんだよね」
「東雲家の娘というだけで、周りは最初から一線を引いていましたので」
玲華が補足した。
「クラスメイトの皆様は、わたくしに親しく接してくださいましたが、それはどこか、腫れ物に触るような態度でした。財閥のご令嬢だから、下手なことは言えない。粗相があってはならない。そういう空気が、いつも周りにございました」
「友達、いなかったのか」
「表面的には、皆様と仲良くしておりました。ですが、本音を言い合える相手は、一人もおりませんでした」
玲華はそこで一度言葉を切り、雨上がりの校庭に視線を向けた。
「わたくし、ずっと一人で、教室の隅で本を読んで過ごしておりました。誰かに嫌われていたわけではございません。ただ、誰も、本当の意味では近づいてこなかったのです」
「あたしはそん時、まだ今より全然大人しくてさ」
ミウが話を引き取った。
「今と真逆じゃねえか」
「うるさいなあ。中一の頃はまだ、髪も黒かったし」
ミウは苦笑しながら続けた。
「でも、なんか、れーちゃんのこと見て、可哀想とかじゃなくて、単純に勿体無いなって思ったんだよね」
「勿体無い?」
「だって、休み時間、いつも一人で本読んでてさ。でも見てると、たまにすごい面白い顔するんだよ。本の内容に反応して、眉ひそめたり、口元緩めたり」
玲華が少し恥ずかしそうに視線を落とした。
「そんな顔、しておりましたの」
「してたしてた。それ見て、あたし思ったの。この子、本当はもっと感情豊かなのに、それを表に出せない何かがあるんだなって」
ミウはそこで、当時のことを思い出すように、少し遠い目をした。
「だから、ある日、思いきって話しかけたんだよね。『その本、面白い?』って」
「わたくし、心底驚きました。周りの誰も、わたくしにそんな気安い聞き方をしてくださらなかったので」
「あたし、れーちゃんが東雲家のお嬢様だって知らなかったわけじゃないけど、正直そんなの、あたしにはどうでもよかったんだよね」
ミウはきっぱりとそう言った。
「れーちゃんが東雲でも山田でも、れーちゃんはれーちゃんじゃんって、その時からずっと思ってる」
玲華の目に、うっすらと涙が滲んでいるのが見えた。
「その言葉を、わたくしは今でも、はっきりと覚えております」
「あたし、覚えてないんだけど、そんなかっこいいこと言ったっけ」
「言いましたわ。忘れないでくださいまし」
玲華は少しむきになって言い返した。ミウはくすくすと笑いながら、話を続けた。
「それから、なんとなく一緒にいるようになってさ。れーちゃん、最初は敬語だったんだよね、あたしにも」
「当然ですわ。初めましての方に、砕けた言葉遣いは失礼にあたりますので」
「でも、あたしがずっと『敬語やめてよ、なんかそれ壁作ってるみたいで嫌』って言い続けたら、だんだん崩れてきてさ」
「今の口調も、ミウの前だけでは、少し崩れておりますでしょう」
「うん、それでいいと思う」
二人はそこで顔を見合わせて、小さく笑い合った。俺はその様子を眺めながら、二人の間に積み重ねられてきた時間の重みを、改めて実感していた。
「あたし、れーちゃんのこと、れーちゃんって呼び始めたのも、その頃だったよね」
「ええ。周りの皆様が『東雲さん』と呼ぶ中、ミウだけが、わたくしを名前で呼んでくださいました」
「なんとなく、さん付けとか、名字呼びとか、れーちゃんには合わない気がしてさ」
「わたくしも、ミウにだけは、名字で呼ばれたくないと、密かに思っておりました」
玲華はそう言って、少し照れくさそうに微笑んだ。
「その頃から、わたくしにとってミウは、特別な存在になっておりました。学校で唯一、東雲玲華としてではなく、ただの玲華として接してくださる方」
「あたしからしたら、そんな大それたことした気はないんだけど」
「ミウにとっては何気ないことでも、わたくしにとっては、大きな救いだったのです」
その言葉を聞きながら、俺はふと、先日、玲華が雨の日に見せた不安げな表情を思い出していた。あの時感じていた「特別ではなくなる怖さ」の根っこには、こうした過去の積み重ねがあったのだろう。
「今の距離感、周りからはよくカップルだって言われるだろ」
俺がそう聞くと、二人は顔を見合わせて笑った。
「よく言われます」
「言われすぎて、もう慣れたよね」
「否定しても、あまり信じていただけませんの」
「まあ、傍から見りゃそう見えるのも、わからなくはねえけどな」
玲華とミウは、ちらりと視線を交わした。そこには、言葉にしなくても通じ合っているような、独特の空気があった。
「先生」
玲華がふと、真剣な声で切り出した。
「わたくしとミウの関係は、恋愛とか友情とか、そういう簡単な言葉で分類できるものではないのかもしれません」
「そうか」
「ただ、確かなことは、ミウがわたくしにとって、何より大切な存在だということです」
「あたしも、れーちゃんのこと、そんな感じ」
ミウは少し照れくさそうに、そう付け加えた。
夕暮れが近づき、渡り廊下に差し込む光がだんだんと橙色に変わっていく。俺は二人の隣で、ただそっとその空気を味わっていた。
「先生、聞いてくださって、ありがとうございました」
「べつに、俺は何もしてねえよ。ただ聞いてただけだ」
「それだけでも、じゅうぶんですわ」
玲華は小さく微笑んで、鞄を持って立ち上がった。ミウもそれに続く。
「じゃあね、先生」
「またな」
二人が並んで渡り廊下を歩いていく後ろ姿を、俺は見送っていた。玲華の肩に、ミウが自然に腕を回している。その距離感は、依然として周囲からは恋人同士に見えるものだったが、俺にはもう、それを単純な言葉で括る気にはなれなかった。
友情でも恋愛でもない、あるいはその両方でもあるような、二人だけの特別な関係。それは中学時代から積み重ねられてきた、かけがえのない時間の結晶なのだろう。
夕焼けに染まる渡り廊下を眺めながら、俺はこのクラスの生徒たちが抱える、それぞれの物語の深さに、改めて思いを馳せていた。




