第二十話 雨の日、お嬢様は不機嫌
文化祭明けの月曜日。窓の外では朝から霧のような雨が降り続いていて、教室の中も、いつもよりどこか湿っぽい空気が漂っている。今日にも梅雨入りしそうだ。
その日、俺は朝のホームルームで、教室の異変にすぐに気づいた。
いつも窓際で穏やかに微笑んでいるはずの玲華が、今日は明らかに機嫌が悪そうな顔をして、頬杖をついたまま窓の外を睨みつけていた。
「東雲、どうした?」
「べつに、なんでもございませんわ」
声のトーンだけで、なんでもないわけがないことは明白だった。周囲の生徒たちも、玲華の様子に気づいてはいたが、なんとなく距離を置いているようだった。
休み時間になると、その原因がなんとなく見えてきた。
「ミウー、昨日、数学、教えてくれてありがとね」
声をかけてきたのは、隣の一年桜組……ではなく、同じ二年でも別のクラスの生徒だった。廊下から顔を覗かせて、親しげにミウに話しかけている。
「ああ、あれね。月末の期末テストも一緒にやろっか」
「うん、ぜひ! ミウ、教え方すごいわかりやすいから助かる」
二人が楽しそうに話している様子を、玲華は自分の席から、明らかに硬い表情で見つめていた。ミウがその生徒と別れて教室に戻ってくると、玲華はさっと視線を逸らし、何事もなかったかのように文庫本を開いた。
「れーちゃん、お待たせ」
「……べつに、待っておりませんが」
「え、なんか機嫌悪い?」
「そのようなことは、ございません」
玲華は文庫本のページに視線を落としたまま、ミウの方を見ようともしなかった。ミウは首をかしげながらも、それ以上は深く追及せず、自分の席に戻っていった。
俺は教壇の近くで、その一連のやり取りを眺めながら、なんとなく違和感を覚えていた。
昼休み、教室の隅ですみれが、興奮気味に俺に耳打ちしてきた。
「先生、見ましたか、今の」
「今の、って」
「玲華さんの反応です。あれは間違いなく嫉妬です」
「嫉妬」
「ミウさんが他の生徒と仲良くしてるのを見て、露骨に不機嫌になってたじゃないですか。あれは典型的な独占欲の表れです」
すみれはノートを取り出して、興奮した様子で書き込みを始めた。
「これは大変な事態です。れいみうの新展開かもしれません」
「お前、こういう時だけ生き生きしてるな」
「当然です。これが私の生きがいですから」
俺は苦笑しながら、すみれの熱量に少し呆れていた。
☆
放課後、雨脚がさらに強くなる中、俺は教室に忘れ物を取りに戻った。すると、玲華が一人、窓際の席に座って、雨に濡れた校庭をぼんやりと眺めていた。
「東雲、まだ帰ってなかったのか」
「傘を、忘れてしまいまして」
玲華の声には、いつもの凛とした調子がなく、どこか力が抜けたような響きがあった。俺は近くの席に腰を下ろして、彼女の横顔を眺めた。
「今日、ずっと機嫌悪かったよな」
「そのようなことは」
「隠さなくていいだろ、べつに。誰か見てるわけでもねえし」
玲華はしばらく黙り込んでいた。窓ガラスを伝う雨粒が、彼女の顔にゆらゆらとした影を落としている。
「わたくし、自分でもよくわからないのです」
ぽつりと、そう漏らした。
「ミウが他のクラスの方と仲良くしているのを見ると、なぜか胸のあたりが、ざわざわといたします」
「それ、嫌な気持ちってことだろ」
「嫌、というのとも、少し違う気がいたします。ただ、無性に、落ち着かなくなるのです」
玲華は自分の胸のあたりに、そっと手を当てた。
「ミウには、たくさんの人と仲良くする自由がございます。それはわかっておりますの。それなのに、なぜかわたくしは、それを素直に喜べません」
「それ、嫉妬って言うんじゃねえのか」
俺がそう言うと、玲華は弾かれたように顔を上げた。
「し、嫉妬など、そのような」
「違うのか」
「違いますわ。わたくしとミウは、ただの、その、幼馴染のようなもので」
「幼馴染に嫉妬しちゃいけねえ理由でもあるのか」
玲華は言葉に詰まった。窓の外の雨音だけが、しばらく教室に響いていた。
「わたくし、ミウが他の誰かと親しくするのを見るたび、なぜか自分だけが特別ではなくなるような、そんな感覚に襲われるのです」
その声は、ほとんど独り言のようだった。
「わたくしにとって、ミウは唯一、本音を言える相手です。学校の中で、東雲家の娘としてではなく、ただの玲華として接してくれるのは、ミウだけなのです。だから、その関係が、他の誰かによって薄まってしまうことが、怖いのかもしれません」
俺は玲華の言葉を、しばらく黙って聞いていた。すみれが言うところの「嫉妬」だとか「独占欲」だとか、そういう単純な言葉で片付けていいものなのか、俺にはよくわからなかった。ただ、玲華の抱えている不安の輪郭だけは、なんとなく理解できた気がした。
「東雲」
「はい」
「嫌なら嫌って、自分で認めないと、相手には伝わらんぞ」
玲華は驚いたように俺を見た。
「認める、というのは」
「今の気持ち、隠すのはお前の勝手だけど、隠したままじゃ、ミウには絶対伝わらねえ。ミウはお前が不機嫌だってことにも、たぶん気づいてる。でも理由まではわかってねえだろ」
「それは……」
「べつに、今すぐミウに気持ちぶちまけろって言ってるわけじゃねえ。ただ、自分の中で、この気持ちが何なのか、ちゃんと認めてやらねえと、いつまでもモヤモヤしたままだと思うぞ」
玲華は膝の上で両手を握りしめたまま、しばらく考え込んでいた。
「わたくし、自分の気持ちを正直に伝えるのが怖いのかもしれません」
「伝えたら、何か変わるのか」
「変わってしまう、気がするのです。今のこの、曖昧な関係が」
その言葉には、玲華のこれまでの積み重ねてきたものすべてが詰まっているように聞こえた。中学時代から続く、家柄も価値観もまったく違う二人の、絶妙な均衡。それを崩すことへの恐れが、玲華の中に根深く存在しているのだろう。
「無理に変える必要はねえだろ。ただ、お前がどうしたいのかくらいは、自分で考えとけ。伝えるかどうかは、そのあとで決めりゃいい」
玲華はしばらく俯いていたが、やがて小さく頷いた。
「先生の仰ること、少し、わかる気がいたします」
「わかったなら、それでいいよ」
窓の外では、雨がまだしとしと降り続いていた。玲華は鞄から折り畳み傘を取り出しながら、少し照れくさそうに呟いた。
「先生、今日のこと、ミウには」
「言わねえよ、べつに」
「ありがとうございます」
玲華は小さく頭を下げて、教室を出ていった。俺はしばらく一人、雨に濡れた窓ガラスを眺めていた。
☆
翌日、教室に入ると、玲華はいつも通りの穏やかな表情に戻っていた。ミウとも普段通りに接していて、昨日のぎこちなさは表面上はもう見られなかった。それでも、玲華がミウを見つめる視線に、以前より少しだけ、複雑な陰影が混じっているような気がした。




