第十七話 委員長だって面倒くさい
五月もあと数日で終わりを迎える日、俺は職員室で提出物の整理をしていたところ、廊下を歩く千紘の姿がふと目に留まった。
いつもきびきびと歩いているはずの千紘が、心なしか足取りが重く、顔色もどこか優れないように見えた。すれ違いざまに声をかけてみる。
「大宮、大丈夫か」
「あ、はい、大丈夫です」
即答だったが、その声にはいつもの張りがなかった。俺はなんとなく気にかかりながらも、その場ではそれ以上追及しなかった。
しかし、その日の昼休み、教室では小さなトラブルが起きていた。文化祭の準備を巡って、ミウとひなたの間で意見が食い違い、ちょっとした言い合いになっている。
「だから、あたしは看板のデザイン、こっちの方がいいって言ってるだけ」
「でも、こっちの方が目立つと思うんですけど」
「二人とも、落ち着いて。順番に話を聞くから」
千紘がすぐさま間に入り、両方の意見を丁寧に聞き取っていく。その手際は、いつも通り見事なものだった。しかしその日の放課後、俺は千紘が一人で残って、文化祭の資料を山のように抱えて作業しているのを見つけた。
「大宮、それ全部お前がやってんのか」
「はい、まあ、私が委員長なので」
「他の奴らは手伝ってねえのか」
「みんな、それぞれ担当があるので、細かい調整とか取りまとめは、私がやった方が早いかなと思って」
千紘はそう言いながら、机の上に広げた書類に目を通し続けていた。飲食ブースのシフト表、看板のデザイン案、備品の発注リスト。どれも本来は複数人で分担すべき作業のように見えたが、千紘一人で抱え込んでいる様子だった。
「これ全部、お前一人でやる必要あんのか」
「みんな忙しいですし、私がやった方が、揉め事も少なくて済むので」
その言葉に、俺は少し引っかかりを覚えた。
翌日の休み時間、玲華とミウが、千紘について心配そうに話しているのを耳にした。
「千紘さん、最近顔色悪くありません?」
「あたしもそう思ってた。なんか、いつも疲れてる感じ」
「委員長のお仕事、少し多すぎるのではないでしょうか」
「本人に聞いても、大丈夫です、しか言わないんだよね」
二人の会話を聞きながら、俺は千紘の様子をもう少し注意深く観察することにした。
☆
その翌日、放課後の教室で、俺はついに千紘が机に突っ伏しているのを見つけた。声をかけても、すぐには反応がない。
「大宮」
もう一度呼びかけると、千紘はのろのろと顔を上げた。目の下には濃いクマができていて、表情にも普段の凛とした様子がなかった。
「先生、すみません、ちょっとぼんやりしてました」
「お前、最近ずっと無理してるだろ」
「そんなことないです」
「嘘つけ。ここ数日、毎日誰よりも遅くまで残って、誰よりも仕事抱えてるだろ」
千紘は言葉に詰まった。しばらく黙り込んだ後、ようやく小さな声で答えた。
「私、委員長なので。クラスの揉め事とか、調整とか、全部引き受けるのが役目だと思ってます」
「役目って、誰が決めたんだ、それ」
「誰が、というか……委員長になった時から、そういうものだと思ってました」
「揉め事全部一人で抱え込むのが委員長の仕事なのか」
千紘は答えられずにいた。俺はしばらく彼女の様子を見てから、続けた。
「お前、この前、ミウとひなたの言い合い、間に入って上手くまとめてただろ。あれは確かにお前の得意なことだと思う。でも、それとお前が全部の作業を一人で抱え込むことは、別の話じゃねえのか」
「でも、私がやらないと、誰かがやらなきゃいけなくて、それで揉めるくらいなら、私が引き受けた方が早いんです」
「それ、お前が便利屋になってるだけだろ」
千紘の肩が、びくりと震えた。
「委員長は便利屋じゃねえよ。みんなの意見をまとめる役目であって、みんなの仕事を全部代わりにやる役目じゃねえだろ」
千紘はしばらく黙ったまま、机の上に広げた資料を見つめていた。
「私……そうやって、みんなの分まで背負うことでしか、自分の存在価値を、感じられなかったのかもしれません」
その言葉には、思いのほか深い響きがあった。
「私、中一の時からずっとクラス委員長で。誰かに頼るより、自分でやった方が早いって、ずっと思ってきたんです。それが、いつの間にか、全部自分でやらないと気が済まなくなっていたのかもしれません」
「それ、しんどいだろ」
「しんどい、と思ったこと自体、あんまりなかったです。ただ、最近、なんか、体が重いなとは感じてました」
俺はしばらく黙って、千紘の言葉を聞いていた。
「お前、頼るの、苦手なタイプだろ」
「……はい。頼ると、迷惑をかけている気がして」
「迷惑とか気にする前に、まず周りに聞いてみろよ。お前が一人で抱え込んでること、みんな知らねえかもしれねえけど、知ったら普通に手伝いたいって思う奴、たくさんいるだろ」
千紘は少し驚いたような顔をした。
「本当に、そう思いますか」
「玲華もミウも、お前のこと心配してたぞ、この前」
「そう、なんですか」
「お前が全部一人で抱え込んでるのが心配だって、話してた」
千紘はしばらく黙り込んだ後、ゆっくりと頷いた。
「明日、みんなに相談してみます」
「それでいいと思うぞ」
☆
翌日の放課後。千紘は教壇の前に立っていた。机の上には、文化祭準備の資料が何冊も積まれている。
「みんな、ちょっといい?」
声をかけると、教室のあちこちから視線が集まった。
いつもなら、千紘はここから迷わず話を進める。だが今日は、なかなか次の言葉が出てこなかった。
「その……文化祭の準備なんだけど」
そこで一度、口を閉じる。
「千紘?」
ミウが不思議そうに首をかしげた。
「どうしたの」
「ううん。なんでもない」
そう答えかけて、千紘は言葉に詰まった。それでは昨日までと同じだ。
俺は教室の後ろから、黙って様子を見ていた。
千紘は手元の資料をぎゅっと握る。
「……私、一人じゃ、ちょっと手が回らなくて」
その一言を口にしただけで、ひどく緊張しているのがわかった。
「もし、迷惑じゃなければ――」
「なんで迷惑になるの?」
ミウが即座に返した。
千紘が目を丸くする。
「え?」
「手伝ってほしいんでしょ?」
「……うん」
「じゃあ最初からそう言ってよ」
今度は玲華も微笑んだ。
「千紘さんが困っているのでしたら、皆で分担すればよろしいですわ」
教室のあちこちから、次々と声が上がる。
「看板なら私やるよ」
「シフト表、手伝える」
「備品確認も分けようよ」
千紘はしばらく、何も言えずに立っていた。
頼ったら迷惑をかける。きっと、ずっとそう思っていたのだろう。だが実際には、誰一人として迷惑そうな顔をしていなかった。
「……ありがとう」
千紘は、ようやく小さく笑った。
☆
みんなの作業が一段落つき、最後に教室に残った千紘が、片付けをしながら俺に声をかけてきた。
「先生、ありがとうございました」
「べつに、俺は何もしてねえよ」
「いえ、先生が気づいてくれなかったら、私、たぶんずっと一人で抱え込んだままだったと思います」
千紘はそう言って、少し照れくさそうに微笑んだ。
「委員長は便利屋じゃない、って言葉、心に残りました」
「まあ、覚えといて損はねえと思うぞ」
千紘はいつもより軽やかな足取りで、鞄を持って教室を出ていった。
そのあと、俺が文化祭関係の書類を抱えて職員室へ戻ろうとしていると、廊下の向こうから白崎先生が歩いてきた。
「黒部先生」
「ん?」
「これ、桜組の分です」
白崎先生が差し出してきたのは、文化祭実行委員会から配られた追加資料だった。
「松組の分を取りに行ったついでに、受け取っておきました」
「悪い。助かった」
「珍しいですね」
「何が」
「黒部先生が、素直にお礼を言うの」
「俺をなんだと思ってんだ」
白崎先生が楽しそうに笑った。
「いえ。普段はもう少し、ぶっきらぼうなので」
「お前、最近遠慮なくなってきたな」
「黒部先生を見習ってるんです」
「そこ見習うところじゃねえだろ」
その時、廊下の少し先から、鉛筆が紙の上を走るような音が聞こえた。
見ると、すみれが壁際に立って、スケッチブックへ猛烈な勢いで何かを描いている。
「高鳥」
びくり、と肩が跳ねた。
「……はい」
「何描いてる」
「何も描いてません」
「今めちゃくちゃ描いてただろ」
俺が近づこうとすると、すみれはスケッチブックを胸元に抱えて後ずさった。
「創作の自由を侵害しないでください」
「お前の創作に俺を勝手に使うな」
「まだ先生だとは言ってません」
「自白してんじゃねえか」
白崎先生が横から、興味深そうにすみれのスケッチブックを見る。
「何を描いてたんですか?」
「白崎、見るな」
「なぜ黒部先生が止めるんです?」
「嫌な予感しかしねえからだよ」
すみれは眼鏡を押し上げ、小さな声で呟いた。
「同い年。同じくらいの身長。正反対の性格……」
「高鳥」
「はい」
「その先は言うな」
白崎先生だけが、まだ何の話かわかっていない顔で首をかしげていた。




