第十四話 普通の女子高生、松原杏
五月下旬、放課後の教室で、俺はふと杏の様子が気にかかった。
華やかなクラスメイトたちに囲まれながら、杏はいつも一歩引いた位置に立っている。お嬢様の玲華でも、ギャルのミウでも、推し活のひなたでも、インフルエンサーのリリアでもない。特別な肩書きも、目立った特技もない。ただ、目立たず教室の日常に溶け込んでいるような生徒だった。
「松原、お前、放課後いつも急いで帰るよな」
声をかけると、杏は鞄を片付けながら、あっさりと答えた。
「バイトがあるので」
「バイト、週何回くらいやってんだ」
「週三です。ファミレスで」
「大変だな」
「べつに、普通ですよ」
その「普通」という言葉の使い方に、俺はなんとなく引っかかるものを感じた。杏は特に感情を込めるでもなく、淡々と鞄を肩にかけて教室を出ていった。
☆
その日の夜、俺はたまたま立ち寄った近所のファミリーレストランで、思わぬ人物と再会することになった。
「いらっしゃいませ、何名様……」
制服姿の店員が顔を上げた瞬間、互いに目が合った。
「せっ、先生!?」
「松原か」
杏は明らかに動揺した様子で、手に持っていたメニューを取り落としそうになっていた。
「な、なんでここに」
「近所だからだよ。お前がここでバイトしてるとは知らなかった」
周囲の視線を気にしたのか、杏は慌てて表情を取り繕った。
「あの、普通に案内しますね。何名様ですか」
「一人だ」
「こちらへどうぞ」
案内された席に座りながら、俺は杏の働きぶりをそれとなく観察していた。オーダーを取る手つきも、配膳の動作も、驚くほど手慣れている。忙しい時間帯だったにもかかわらず、次々と入る注文をてきぱきとさばいていく姿は、教室で見せる控えめな印象とはまったく違っていた。
「松原さん、こっちのお会計お願い」
「はい、今行きます」
先輩らしき店員に呼ばれて、杏はすぐさま動く。厨房とホールを行き来しながら、時には後輩らしき店員に指示を出している場面も見えた。
「松原さん、そっちの三番テーブル、下げ物お願いしていい?」
「大丈夫です、任せてください」
注文した料理が運ばれてきた時、杏は少し気まずそうな顔でテーブルに皿を置いた。
「お待たせしました」
「お前、随分板についてんな」
「もう一年以上やってますから」
「高校入ってすぐからか」
「はい。うち、そんなに裕福じゃないので」
その言葉は、特に卑屈な調子もなく、ただの事実として語られていた。
閉店間際、客足が落ち着いた頃合いを見計らって、杏が休憩がてら俺のテーブルに近づいてきた。
「先生、今日のこと、あんまりクラスの人に言わないでもらえますか」
「なんでだよ、べつに隠すことでもねえだろ」
「隠したいわけじゃないんですけど……なんか、気を遣われるのが、面倒で」
杏はそう言って、少し疲れたような笑みを浮かべた。
「うちのクラス、玲華みたいなお嬢様もいれば、リリアみたいな有名人もいますよね。私、そういうのと比べると、本当に何もないんです。特技もない、家も普通、成績も真ん中くらい」
「それの何が悪いんだ」
「悪くはないですけど、なんか、埋もれてる感じがするっていうか」
窓の外を見つめながら、杏はぽつりと呟いた。
「みんな、それぞれ何か持ってるじゃないですか。玲華は家柄、ミウは頭の良さ、ひなたは推し活への情熱、リリアはフォロワー四十万人。私だけ、何もないんです」
俺はしばらく黙って、杏の言葉を聞いていた。彼女の口調には自嘲めいた響きがあったが、それでいてどこか諦めきったような静けさもあった。
「松原」
「はい」
「お前、今日ここで何時間働いた」
「五時から今まで、三時間くらいです」
「その三時間で、いくら稼いだ」
「時給計算すると、四千円くらいですかね」
「その四千円、誰かにもらったのか」
「え?」
「親のカードとかじゃなくて、自分で働いて稼いだんだろ」
「はい、そうですけど」
「じゃあそれ、すげえことだろ」
杏は目を丸くして、俺の顔を見つめた。
「普通に働いて、自分の金稼いでる時点で、じゅうぶんすごいことだと俺は思うぞ」
その言葉に、杏はしばらく黙り込んでいた。
「そんなの、当たり前のことじゃないですか」
「当たり前かどうかは知らねえけど、玲華にはできねえよ、これ」
「それは、育った環境が違うから」
「環境が違うのは事実だけど、お前が今、目の前で客の注文さばいて、後輩に指示出して、自分の給料を自分の手で稼いでる。それは玲華にも、ミウにも、リリアにも真似できねえことだ。少なくとも今のこの瞬間は」
杏の表情が、少しずつ変わっていくのがわかった。困惑から、戸惑いへ、そしてかすかな驚きへ。
「先生、そんなこと言われたの、初めてです」
「大袈裟だな」
「大袈裟じゃないです。私、いつも自分のことを、地味で目立たない、平凡な生徒だと思ってましたから」
窓の外では、夜の街灯がぽつぽつと灯り始めていた。ガラス越しに反射する光が、テーブルの上をぼんやりと照らしている。
「先生、そろそろ賄い休憩の時間なんで、行きますね」
「おう」
杏は立ち上がりかけて、一度だけ振り返った。
「先生、今日のこと、言いふらさないでくださいね。特別扱いされるの、やっぱり面倒なので」
「言わねえよ。ただ、お前がすごい奴だってことは、俺は覚えとく」
杏は少し照れくさそうに笑って、厨房の方へと戻っていった。
☆
翌日の教室、いつも通りの喧騒の中で、杏はいつも通りの控えめな態度で過ごしていた。玲華が新しいコンビニスイーツについて熱弁を振るい、ミウがそれに突っ込みを入れ、ひなたが推しの新情報に一喜一憂している。その輪の中に、杏はさりげなく加わっていた。
「杏ちゃん、聞いてよ、あのアクスタ、新色が五千五百円で出るんだって」
ひなたが興奮気味に言うと、杏はすかさず冷静な声で返した。
「それ、私のバイト約四時間分」
「うっ、そう言われるとちょっと冷静になる……」
玲華が最近覚えたばかりの高価な化粧品について語り始めると、杏は間髪入れずに突っ込みを入れる。
「一万円は端金じゃないからね、玲華さん」
「わたくしにとっては、そこまで大きな額ではございませんが」
「その感覚、庶民には一生わからないから」
教室に、いつもの笑い声が響いた。俺はその輪から少し離れた場所で、その様子を眺めていた。特別な肩書きも目立った特技もないように見える杏だが、彼女がいなければこのクラスの金銭感覚はとっくに崩壊していただろう。地に足のついたその存在感は、華やかな面々の中で、確かな重みを持っていた。
窓の外には、初夏の日差しが柔らかく差し込んでいる。俺はふと、杏が昨夜見せてくれた、あの手慣れた働きぶりを思い出していた。普通であることは、決して何もないことではない。そのことを、この生徒は自分の力で証明しているのかもしれなかった。




