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「金食い虫」と呼ばれた偽物令嬢ですが、静かに下がるつもりはありません  作者: neene


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第7話 一人分の盆

 湯気より先に、盆の数で分かる。


 昼席の支度は、廊下の角からもう始まっていた。

 銀盆を持つ侍女が二人。

 水差しを運ぶ下働きが一人。

 主卓へ向かう盆は、横へ逃げない。

 まっすぐ、大広間の扉へ入る。


 一つだけ、違う盆があった。


 白布をかけられ、小さな蓋が載っている。

 人の目から少し外すように、壁際へ寄せて置かれていた。


 その盆の横に、ヘレンが立っている。


 朝に見た、配膳控えの文字が浮かぶ。


 別盆、一。

 南棟小客間 先。


 執務室で戻ったのは、紙の上の名前だけだった。

 皿の行き先は、もう廊下に置かれている。


「ヘレン」


 私が声をかけると、彼女は振り向いた。


「お嬢様」


 声は乱れない。

 目だけが、私の後ろを見た。


 クラウディア様。

 エドガー様。

 その少し後ろに、マルタ。


 ヘレンの指が盆の縁を押さえた。


「その盆はどこへ」


「南棟へ」


「誰の分ですか」


「……ご用意の分です」


「名前を聞いています」


 ヘレンはすぐには答えなかった。


 動けないのではない。

 主卓と配膳控えと、どちらに従えば自分の傷が浅いかを測っている。


「控えを見せてください」


「配膳中ですので」


「見せてください」


 マルタが静かに言った。


 ヘレンはそこで、盆から手を離した。

 腰の前掛けに挟んでいた細い紙を取り出す。


 主卓、九。

 控卓、三。

 別盆、一。

 南棟小客間 先。


 朝と同じ筆跡だった。

 違うのは、欄外に小さく書かれた一語。


 済。


「もう回したのですか」


「いえ」


 ヘレンは答えた。


「これからです」


「では、済とは何ですか」


「支度が」


「席は」


 ヘレンの喉が動いた。


「席は、主卓に」


「誰の」


「……リゼット様の」


 その言葉だけが少し遅れた。


 クラウディア様が一歩近づく。


「では、その盆は」


「予備です」


「予備を南棟小客間へ先に?」


「もし、主卓が混み合えば」


「主卓が混み合うと、誰が南棟へ回るのですか」


 ヘレンは答えない。


 大広間の内側から、食器の音が聞こえた。

 すでに席についた人がいる。

 昼は待たない。


 エドガー様が扉の方を見る。


「母上は中か」


「はい」


 ヘレンが答える。


「奥様は、皆様をお待ちです」


「リゼットの席はあるのだな」


「ございます」


「なら、その盆は下げろ」


 ヘレンの手が動かなかった。


 大広間の扉が開く。

 中から別の侍女が出てきた。手には、白い席札が一枚ある。


 名前はまだ見えない。

 だが、角に薄い折れがあった。

 朝、席次表を差し替えた時についた折れ方に似ていた。


「奥様が」


 侍女は言いかけて、私たちを見て止まった。


 ヘレンがその席札へ目を向ける。

 一瞬だけ。

 それで足りた。


 私は侍女の手元を見た。


「その札を」


「これは」


「私のものですか」


 侍女は黙る。


 クラウディア様が手を出した。


「見せてください」


 侍女は逆らわなかった。

 席札を差し出す。


 白い厚紙。

 黒い文字。


 リゼット。


 折れた角の裏に、小さく別の文字が残っていた。

 薄い鉛筆の跡。


 小客間。


 クラウディア様の指が、そこで止まった。


「消してありますね」


「下書きです」


 ヘレンが言った。


「では、なぜ残っているの」


「急ぎでしたので」


「何を急いだのですか」


 返事はない。


 大広間の中で、誰かが笑った。

 明るい声だった。

 その声の手前で、私の名前が書かれた席札と、白布のかかった盆が並んでいる。


 主卓へ置くもの。

 南棟へ回すもの。


 どちらも、私の前にあった。


「ヘレン」


 マルタが言った。


「席札を主卓へ」


「ですが」


「配膳控えは朝の表です。執務室で席次表が差し替わりました」


「奥様からは」


「公爵様からです」


 ヘレンの目が一度だけ伏せられた。


「主卓へ」


 マルタが繰り返す。


 ヘレンは手を出さなかった。

 席札を持った侍女が、そのまま扉へ向かう。


 大広間の内側へ入る直前、侍女の足が止まった。


 中から夫人の声がした。


「何をしているの」


 侍女は振り返らない。

 席札を持つ手だけが、少し下がった。


 クラウディア様が扉の前へ進む。


「私が見ています」


 夫人の声は返らなかった。


 侍女が中へ入る。

 扉の隙間から、主卓の端が見えた。

 空いている場所が一つ。

 皿は置かれていない。

 だが、椅子だけはあった。


 席札がそこへ立てられる。


 遠くからでも、黒い文字は見えた。


 リゼット。


 それだけでは、まだ足りない。


「別盆は」


 マルタが言う。


 ヘレンは白布のかかった盆を見た。

 次に、私を見る。


「下げます」


 短い返事だった。


 盆を持ち上げる時、蓋がわずかに鳴った。

 湯気はもう細くなっている。


 私は大広間へ入った。


 主卓。

 公爵。

 公爵夫人。

 クラウディア様。

 エドガー様。


 そして、端に置かれた私の席。


 椅子の前には、まだ皿がなかった。


 マルタが一度だけ配膳係を見る。


 銀蓋の載った皿が運ばれ、私の席の前に置かれた。


 湯気が立つ。


 その瞬間に勝った気はしなかった。

 ただ、ここへ来るまでにどれだけの手が要るのかを見ただけだ。


 大広間の外で、一人分の盆だけが少し遅れて引き返していった。

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