第15話 四つあったはずです
ヘレンが戻ってきた時、隣にいた女は、先に自分の手を見せた。
細い指。
爪の際に残った黒い墨。
指の腹には、紙で乾いた薄い荒れがあった。
「夫人付き控え係、イリナです」
彼女は浅く頭を下げた。
声は整っている。
けれど、目は女主人頭室の中へ入ってこない。
扉の外に、逃げる場所を一つ残している。
「昨日の夕刻、控え束の伝達札を見ましたね」
クラウディア様が言った。
「はい」
「持ちましたか」
「札は持ちました」
「鍵は」
イリナは一拍置いた。
「鍵には触れておりません」
その答えは、用意していたように早かった。
だが、早すぎるというほどではない。
触れていない、と言うために何度か口の中で転がしてきた速さだった。
マルタは鍵板の空いた場所を見たまま言った。
「控え束は、どこにありましたか」
「奥様の控え室前です」
「控え室の中ではなく」
「前室の控え棚です」
「誰が置いたのです」
「存じません。私が呼ばれた時には、もう置かれておりました」
ヘレンが木箱を抱え直した。
中の灯明皿が、小さく鳴る。
「その時、控え束には何がありましたか」
マルタが訊いた。
イリナはすぐには答えない。
目が一度、クラウディア様へ行き、エドガー様へ移り、最後にマルタへ戻った。
答えてよい相手を探したのではない。
答えたあとで、誰の前に残るかを測った目だった。
「札が三つ」
「鍵ではなく、札」
「はい。小さな木札です。青薔薇の間、奥様控え室前、女主人頭室前」
「南棟小客間は」
イリナの指が、袖の中で動いた。
「見ておりません」
マルタの顔は変わらない。
「四つあったはずです」
その一言で、部屋の中の温度が下がった。
私は鍵出納控えを見た。
上貼りの下から出てきた文字。
南棟小客間。
出。
受領者 控え束。
返戻 空欄。
受け取った先が控え束なら、そこに南棟小客間の札か鍵がなければならない。
「控え棚を見せてください」
クラウディア様が言った。
イリナの視線がわずかに揺れる。
「奥様の前室です」
「奥様の寝室ではありません」
「ですが」
「私は戻った娘です」
クラウディア様の声は平らだった。
「母の前室に、私の名で動いた鍵の跡があるなら見ます」
イリナは返せなかった。
エドガー様が廊下へ出た。
「行くぞ」
南棟の奥へ進む。
夫人の控え室前は、昼の光が入りにくい場所だった。
香の匂いが薄く残っている。
整えられた部屋の前にだけある、布と油と花の混じった匂い。
扉の横に、低い控え棚がある。
その上に、浅い黒塗りの盆が置かれていた。
盆の中は空だった。
だが、空というには、跡が多すぎた。
薄い埃の切れ目。
木札の角がこすれた浅い筋。
真鍮の鍵頭が触れた丸いへこみ。
紐屑が三本。
私は盆の端へ指を近づけた。
触れる前に、油と古い金属の匂いがした。
「触っても」
私がマルタを見ると、彼女は首を横に振った。
「先に見たものを残します」
ヘレンが持っていた木箱を床へ置く。
マルタが紙を取り、盆の状態を書いた。
場所。
立会人。
盆の有無。
残留物。
紐屑三本。
鍵頭跡。
その間、イリナは控え棚の端から動かなかった。
クラウディア様が盆を見下ろした。
「三本の紐屑」
「はい」
マルタが答える。
「ですが、跡は四つあります」
私は盆の底布を見た。
三つは、札と鍵が一緒に置かれていた跡だ。
紐の擦れ、木札の角、鍵の丸いへこみが並んでいる。
端の一つだけ、違う。
紐屑がない。
木札の角も薄い。
だが、鍵頭のへこみだけが深い。
札を付ける前に、鍵だけが置かれていた跡だった。
薄箱の角が、腕の内側に食い込んだ。
私は持ち直さなかった。
「南棟小客間」
マルタが言った。
「その鍵だけ、先に抜かれた」
イリナが顔を上げる。
「私は」
「あなたが抜いたとは言っていません」
クラウディア様が言った。
「あなたが来た時には三つだった。そういう話です」
イリナの口が閉じる。
その言葉で助けられたのではない。
逃げ道の位置が、少しだけ変わっただけだ。
「この札は」
エドガー様が棚の奥を指した。
盆の下に、小さな白札が挟まっている。
半分だけ見えていた。
マルタが針で引き出す。
控え棚戻し。
字は新しい。
整った字だった。
クラウディア様がそれを見た。
「戻す、という字を使うのですね」
誰も返さなかった。
戻す。
そう書かれた場所で、鍵は先に抜かれていた。
「イリナ」
エドガー様が言う。
「誰から呼ばれた」
「奥様の控え室からです」
「誰が言った」
「控え室の内から、奥様が」
「直接か」
「声は、奥様でした」
「その時、部屋に誰がいた」
イリナは答えない。
「名を言え」
「……オズワルド様が」
ヘレンが息を止めた。
マルタの筆先も止まる。
すぐに動いた。
名が紙に入った。
「ほかには」
「夫人付きの衣装係が一人」
「名は」
「サリアです」
「サリアは何をしていた」
「布箱を持っていました」
「鍵には触れたか」
「見ていません」
「オズワルドは」
イリナの喉が動く。
「盆の近くに立っていました」
「鍵に触れたか」
「見ていません」
見ていない。
その言葉は、否定にはならない。
だが、肯定にもならない。
私は盆の端を見た。
四つ目の跡だけが、深い。
誰かが一度置き、すぐに取った。
札も紐も残さず、鍵の重さだけを底布に残している。
「なぜ、三つの札を運んだのですか」
クラウディア様が訊いた。
「奥様が、灯りと部屋支度に回すようにと」
「南棟小客間の札がなくても」
「控え束、と伺いましたので」
「中身が足りないとは思わなかったのですか」
イリナは盆を見た。
「思いました」
「なら、なぜ言わなかったのです」
「言う相手が、そこにいませんでした」
短い返事だった。
マルタは奥にいたはずの女主人頭室を締め出されかけていた。
夫人の前室には、夫人と執事長がいた。
イリナがそこで「足りません」と言えば、足りないことを見た人間になる。
その重さを避けた。
責めるには、少し遅い。
見逃すには、早すぎる。
「では、いま言えますね」
クラウディア様が言った。
「控え束は、三つでした」
イリナは頷いた。
「はい」
「でも、跡は四つある」
「はい」
「南棟小客間の札はなかった」
「ありませんでした」
「鍵だけが、先に抜かれていた」
イリナは答えなかった。
その沈黙を、マルタが書いた。
沈黙ではなく、確認として。
控え束、控え棚上にて確認。
木札三。
鍵頭跡四。
南棟小客間札なし。
控え棚戻し札あり。
証言者 イリナ。
「この盆を動かしますか」
ヘレンが訊いた。
「動かしません」
マルタが答えた。
「ここで封じます」
彼女は盆に薄紙をかぶせ、四隅を留めた。
薄紙の上からでも、四つ目のへこみだけがわずかに見える。
エドガー様が廊下の奥を見る。
「オズワルドを呼ぶ」
「いま呼べば」
私は言った。
「鍵を持った手の話になります」
「それでは駄目か」
「先に、鍵がどこへ入ったかを見ます」
全員の目がこちらへ向いた。
「手は否定できます。部屋に残った跡は、まだ動いていません」
私は南棟小客間の方を見た。
火は入っていた。
盆は向けられていた。
鍵は先に抜かれていた。
抜いた手を聞くより、使われた場所を見た方が残るものが多い。
「南棟小客間へ」
クラウディア様が言った。
私が言う前だった。
マルタが記録紙を畳む。
ヘレンが灯明皿の木箱を持ち直す。
イリナは一歩遅れてついてきた。
控え棚の上で、控え棚戻しの札だけが薄紙の下に白く残っている。
私は四つ目の跡から、目を離した。




