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「金食い虫」と呼ばれた偽物令嬢ですが、静かに下がるつもりはありません  作者: neene


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第14話 札は残っている

 女主人頭室の札は、廊下の薄い影の中にそのまま掛かっていた。


 女主人頭 マルタ。


 墨は古い。

 木札の端は、毎日手入れされているせいで少し丸い。

 剥がされた跡もない。新しい札を重ねた跡もない。


 部屋の名は、まだ変わっていない。


 マルタは扉の前で足を止めた。

 腰の鍵輪を持ち上げる。


 金属の輪が鳴る。

 その音の中に、足りない一本分の間があった。


「開きますか」


 クラウディア様が訊いた。


「試します」


 マルタは一本ずつ鍵を取った。


 主室。

 北廊物置。

 洗濯室。

 帳場外棚。

 古布室。


 どれも違う。


 最後に、輪の端に残っていた女主人頭室の細鍵を差した。

 鍵穴には入る。

 だが、半分も回らない。


 金属が奥で小さく噛んだ。


 マルタは無理に回さず、鍵を抜いた。


「替えられています」


 声は低い。


「札はそのままなのに」


 エドガー様が言った。


「はい」


 マルタは扉の取っ手を見た。


「中からではありません。外側の筒を替えています」


 私は鍵穴の縁を見た。


 古い木の扉に、そこだけ新しい傷がある。

 削った粉が、取っ手の下に細く残っていた。

 掃かれていない。

 急いだ作業だ。


「いつ」


 クラウディア様が言う。


 マルタは答える前に、膝を少し折った。

 扉の下を指でなぞる。


 白い粉。

 油。

 細い金属屑。


「今朝です」


「なぜ分かるのですか」


「女主人頭室は、昨日の夕方に私がここを開けました」


 マルタの指先に、白い粉がついた。


「この粉は、まだ廊下の湿気を吸っていません」


 ヘレンが息を呑んだ。


 小さな音だった。

 だが、マルタはそちらを見なかった。


「鍵を替えた者がいます」


 エドガー様が言った。


「業者ですか」


「屋敷内でできます」


 マルタは答えた。


「予備の筒と工具があれば」


「工具はどこに」


「帳場外棚です」


 その名が出た瞬間、私はマルタの鍵輪を見た。


 帳場外棚の鍵は、まだ輪にある。


 マルタも同じところを見た。


「帳場外棚は、私の鍵で開きます」


「なら、あなたが開けたことにできる」


 クラウディア様が言った。


 誰も否定しなかった。


 ヘレンが木箱を抱え直す。


「奥様付きの伝達では、女主人頭室前の廊下灯を足すように、とだけ」


「鍵替えのことは」


 クラウディア様が訊く。


「聞いておりません」


 ヘレンは答えた。


「私が持った札ではありません」


 その言葉を、もう一度置いた。

 今度は、自分のためだけではなかった。


 エドガー様が扉に手を触れた。


「このままでは入れないな」


「入る方法はあります」


 マルタが言った。


「予備筒を外せば」


「壊すのか」


「壊すのではありません。戻します」


 マルタは廊下の奥を見た。


「ただし、見た者の名を先に残します」


 クラウディア様が頷いた。


「扉の状態。札。鍵輪。鍵穴の粉。立会人」


「それと」


 私は言った。


「帳場外棚の鍵が、まだマルタの輪にあること」


 マルタの目がこちらへ向いた。


「はい」


 短い返事だった。


 エドガー様が近くの下働きを呼んだ。

 紙と墨が運ばれるまでの間、誰も扉には触れなかった。


 廊下の向こうでは、部屋支度の音が続いている。

 布を広げる音。

 箱を置く音。

 誰かが「奥様へ」と小さく言う声。


 止まっているのは、この扉の前だけだった。


 紙が来る。


 マルタは床に膝をつかず、壁際の小卓を借りて書いた。


 女主人頭室札、現状維持。

 女主人頭室細鍵、女主人頭鍵輪内に現存。

 ただし、現筒とは不一致。

 鍵穴周辺、新しい削り粉あり。

 外筒交換の痕。

 帳場外棚鍵、女主人頭鍵輪内に現存。


 書き終えると、彼女は筆を置いた。


「開けます」


 小さな工具箱が運ばれてきた。

 帳場外棚からではない。

 廊下の修繕箱だ。


 それを見て、マルタの眉が少しだけ動いた。


「この箱は、誰が持ってきましたか」


「修繕係です」


 下働きが答えた。


「誰に言われて」


「廊下で、帳場の方から」


「セリクですか」


「いえ。別の方です」


「名は」


「聞いておりません」


 マルタは工具箱を開けた。


 中に、小さな筒が一つ残っていた。

 使い古しではない。

 封紙だけが裂かれている。


 予備筒が二つ入る場所に、一つしかない。


「一つ使われています」


 クラウディア様が見下ろした。


「替えた分ですね」


「おそらく」


 マルタは封紙の切れ端を摘まんだ。


 そこに細い字がある。


 控え束。


 私は、その二文字を見た。


 南棟小客間の鍵。

 女主人頭室の鍵替え。

 灯りの支度。

 同じ言葉が、別々の場所から出てくる。


「控え束はどこにありますか」


 私は訊いた。


 マルタはすぐには答えなかった。

 鍵輪を握る指に、少しだけ力が入る。


「本来は、女主人頭室の内棚です」


「控え束へ出された扱いになっているということですか」


「まだ確定しません。出納控えを見ます」


「でも、今は開かない」


「はい」


 エドガー様が息を吐いた。


「よくできているな」


「よくありません」


 クラウディア様が言った。


「閉じた部屋の中にある鍵束を使ったことにする。外から筒だけ替える。札は残す。そうすれば、マルタがまだ管理しているように見える」


 ヘレンの顔が白くなる。


「それでは」


「失くしたのはマルタになる」


 私が言った。


 マルタは否定しなかった。


 工具が扉にかかる。


 マルタの手つきは静かだった。

 速くない。

 音を立てない。

 ただ、余計な力がない。


 筒が外れる。


 新しい金属の匂いがした。

 扉の中から、かすかに紙と薬草の匂いが流れてくる。


 女主人頭室の匂いだ。


 マルタは外した筒を布に包み、書いた紙の横へ置いた。


 それから扉を開けた。


 部屋の中は荒らされていなかった。


 机。

 棚。

 壁の鍵板。

 帳面を置く小箱。

 乾かした香草の束。


 荒らされた跡はない。

 代わりに、触るべき場所だけが触られていた。


 鍵板の中央に、一本だけ空きがある。


 南棟小客間。


 札だけが残っていた。

 鍵はない。


 マルタはその前に立った。


 背筋は曲がっていない。

 けれど、呼吸が浅い。


「ここから抜かれています」


 彼女は言った。


「いつ」


 エドガー様が訊く。


「この場では、記録で確認します」


 マルタは鍵板の下にある細い帳面を取った。


 鍵出納控え。


 開く。


 日付。

 部屋名。

 出入。

 受領者。

 返戻。


 南棟小客間の欄だけ、細い紙で覆われていた。


 糊はまだ新しい。


 マルタはそれを剥がさない。

 まず、私たちに見せた。


「上貼りです」


「剥がせますか」


「剥がせます」


 彼女は針を取った。

 紙の端を浮かせる。

 ゆっくり。

 破らないように。


 下から、別の字が出る。


 南棟小客間。

 出。

 受領者 控え束。

 返戻 空欄。


 日付は、一昨日の夕刻。


 私に通告がある前だった。


 クラウディア様がその欄を見た。


「私が戻る前」


「はい」


 マルタが答える。


「リゼット様に通告がある前でもあります」


 部屋の空気が変わった。


 これは、誰かが予想した準備ではない。

 先に決めていた順番だ。


 私は薄箱を抱える手に力を入れた。


「控え束という受領者は、人ではありませんね」


「はい」


「人ではない名前で、鍵が出ている」


「はい」


「誰が持ったか分からない」


「この記録では」


 マルタは静かに答えた。


「分からないようにしてあります」


 エドガー様が壁を見た。


「これを父上のところへ持っていく」


「帳面ごとですか」


「必要だ」


 マルタは頷かなかった。


「これは女主人頭室の現用控えです。持ち出すなら、代わりを残します」


「また手続きか」


「はい」


 マルタは顔を上げた。


「手続きがないところから、今日のことが始まっています」


 エドガー様は黙った。


 マルタは紙を取り、上貼りの状態、剥がした時刻、立会人、露出した記載を書いた。

 剥がした紙片は、別の薄紙に挟む。


 その手つきは揺れない。


 だが、鍵板の空いた場所だけは、どうしても目に入る。


 ヘレンが小さく言った。


「その控え束の札を、私は見ました」


 マルタが振り向く。


「どこで」


「奥様の控え室前です。昨日の夕刻。灯りの支度と一緒に」


「誰が持っていましたか」


 ヘレンは唇を閉じた。


 今度はすぐに答えない。


 クラウディア様が言った。


「ここで名前を出さないと、あなたの名で動いた札だけが残ります」


 ヘレンの肩が小さく下がった。


「夫人付きの控え係です。名は、イリナ」


「呼べるか」


 エドガー様が言う。


「呼べます」


「呼べ」


 ヘレンは一礼して出ていった。


 部屋に、鍵のない音が残った。


 私は鍵板の空いた場所を見た。


 札は残っている。

 記録も残っている。

 けれど、鍵だけが先に抜かれていた。


 人を外す前に、手を届かなくする。


 部屋を奪う前に、開ける権利を奪う。


 その順番が、ここにもあった。


「見えたわ」


 クラウディア様が言った。


 誰もすぐには返さなかった。


 彼女は鍵出納控えを見ている。


「名前は残っているのに、使うところだけ抜かれている」


 マルタの手が、鍵板の空いた場所の下で止まる。


 その言葉は、彼女に向けた慰めではなかった。

 だから、残った。


 廊下の向こうで、ヘレンの足音が遠ざかっていく。


 私は薄箱を持ち直した。


 南棟小客間の鍵は、まだ戻っていない。

 控え束を持った手も、まだ見えていない。


 でも、記録上の出た時刻だけは、もう隠れていなかった。


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