第13話 火の残った部屋
灯油は、帳面より先に匂いを残す。
執務室を出たあと、マルタは灯油受払帳の写しを持ち、私は薄箱を抱えたまま、南廊の奥へ向かった。
クラウディア様は黙ってついてくる。
エドガー様は先を歩き、角ごとに立つ使用人の顔を見た。
誰も止めない。
けれど、誰も近づかない。
南棟へ入る手前に、灯り道具の小部屋がある。
夜の間に使った灯明皿、芯切り鋏、替え芯、油差しが集められ、午後にはまた各部屋へ戻される場所だ。
扉の前に、ヘレンがいた。
昼席で席札を持っていた侍女だ。
奥様付き、と呼ばれる側の人間。
だが今は、盆ではなく、灯明皿を載せた浅い木箱を抱えている。
彼女は私たちを見て、頭を下げた。
「灯りの確認ですか」
先にそう言った。
マルタの目が、ヘレンの手元へ落ちる。
「誰から聞いたのです」
「北口から戻された紙包みのことは、もう廊下に出ています」
ヘレンの声は低い。
逃げるための低さではない。
声を高くすると、余計な人に届くからだ。
「午後の部屋支度もあります」
彼女は続けた。
「奥様は、先に整えるようにと」
その一言で、廊下の奥から布を運ぶ足音が聞こえた。
誰かが、いまも部屋を整えている。
「先に整える」
エドガー様が言った。
「何をだ。その箱はどこから下げた」
ヘレンは木箱を一度見た。
「南棟小客間。青薔薇の間。奥様の控え室前。女主人頭室前の廊下灯です」
四つ。
マルタの指が、受払帳の端を押さえた。
「そのうち、昨夜使ったものは」
「南棟小客間と、奥様の控え室前です」
「女主人頭室前は」
「今朝です」
「誰の指示で」
「奥様付きの伝達で」
自分を含める言い方ではない。
だが、外す言い方でもない。
私は木箱の中を見た。
灯明皿は四つ。
うち一つだけ、芯の先が短く焼けている。
別の一つは、油の縁が厚い。
火を長く入れた器だ。
「南棟小客間のものはどれですか」
ヘレンは一番奥の灯明皿を指した。
芯は短い。
皿の内側に、濃い煤が輪になって残っている。
短い支度の火ではない。
私は受払帳の写しを開いた。
本邸分。
夜半。
持出量、増。
返戻なし。
部屋名はない。
「部屋名を書かないのですか」
「通常は書きます」
マルタが答えた。
「夜番用、来客用、廊下用。大きな屋敷では、場所を残さなければ油の減りが追えません」
「では、これは」
「場所を消した記録です」
ヘレンの手が、木箱の縁にかかった。
クラウディア様が小部屋の中へ目を向ける。
「南棟小客間には、誰かがいたのですか」
「おりません」
ヘレンは答えた。
「では、なぜ火を」
「整えるようにと」
「誰のために」
「戻られる方のために」
「私は、昨日まで屋敷にいません」
「はい」
「なのに、火は入っていた」
「はい」
クラウディア様は灯明皿を見た。
「私のため、と言いながら」
その声は平らだった。
「そこへ先に回される盆は、リゼット様のものでした」
ヘレンは答えなかった。
答えないことで、否定しなかった。
「いつからですか」
私が訊く。
「昨夜から」
ヘレンは言った。
「正確には、一昨日の夕刻から支度が始まりました。寝具、香、灯り。花だけは今朝です」
一昨日。
私に通告があった夜より前だ。
クラウディア様が正門に着くより前でもある。
エドガー様の手が止まった。
「一昨日から、南棟小客間を整えていたのか」
「はい」
「誰が使う部屋として」
ヘレンは答えなかった。
答えないことで、答えた。
私は木箱の端に付いた小さな紙片を見た。
灯明皿を部屋ごとに分ける札だ。
南棟小客間。
整備済。
整備。
この屋敷では、その言葉がよく働く。
正式でないまま、人を動かすために。
「その札は、あなたが書いたのですか」
クラウディア様が訊いた。
ヘレンはすぐに首を振らなかった。
まず、木箱の端に付いた札を見た。
「私が持った札ではありません」
早口ではない。
けれど、その一文だけは先に置いた。
「私の名で回っていた伝達札は見ました。ですが、南棟小客間の鍵は持っておりません」
「鍵は」
マルタが言った。
声が少し変わった。
「南棟小客間の鍵は、誰が開けましたか」
ヘレンはそこで初めて、すぐに答えなかった。
「鍵は、控え束から、と聞いています」
「控え束」
「一昨日の夕刻に出た、と。返ったとは聞いておりません」
マルタは腰の鍵輪に触れた。
小さな金属音がした。
いつもより軽い音だった。
「女主人頭の鍵束からではないのですね」
「私は、そう聞いております」
「誰に」
「奥様付きの控え係から」
「名を」
ヘレンは少しだけ視線を落とした。
「ヘレン、と書かれた伝達札がありました」
自分の名だった。
廊下が静かになる。
「それでは」
クラウディア様が言った。
「あなたの名で、南棟小客間の灯りと支度が動いた」
「はい」
「あなた自身は、その鍵を持っていない」
「持っておりません」
「でも、支度は済んだ」
「はい」
ヘレンの答えは短い。
木箱の縁を押さえる指だけが、少し白くなっていた。
私は木箱の中の灯明皿を見た。
火は落とせる。
香も薄れる。
だが、皿の縁に残った煤と、短くなった芯は、火があった場所を残す。
南棟小客間。
そこは、誰かを迎えるための部屋ではなかった。
誰かを入れないために、先に整えられた部屋だった。
「女主人頭室前の廊下灯は、今朝と言いましたね」
マルタが訊いた。
「はい」
「なぜ」
「人の出入りがあるから、と」
「誰の」
「鍵の確認です」
マルタの指が、鍵輪にかかったまま止まる。
「鍵の確認に、灯りを足すのですか」
「暗い場所での差し替えは間違えるから、と」
ヘレンの声が、ほんの少し小さくなった。
差し替え。
その語だけが、木箱の上に残った。
エドガー様がマルタを見る。
「鍵束を」
マルタは腰から鍵輪を外した。
輪は大きい。
だが、そこにあるはずの重みが一部抜けている。
彼女は一本ずつ、指で確かめた。
主室。
北廊物置。
洗濯室。
帳場外棚。
古布室。
そして、指が止まる。
「南棟小客間がありません」
ヘレンは目を伏せた。
クラウディア様が静かに訊いた。
「今、分かったのですか」
「この場で確かめて、分かりました」
マルタは鍵輪を持ったまま、女主人頭室の方を見た。
「出納は、部屋の内棚にあります」
「報告は」
「ありません」
その部屋の前には、古い札が掛かっている。
女主人頭 マルタ。
字は変わっていない。
札は外されていない。
それなのに、鍵だけが先に抜かれている。
「札を見に行きましょう」
クラウディア様が言った。
マルタは一度だけ鍵輪を握り直した。
廊下の向こうで、また布を運ぶ足音がした。
部屋の支度は止まらない。
鍵も、もう待たずに動いていた。
私は灯明皿の縁についた煤を見た。
火を使った場所は、皿に残る。
鍵を抜いた場所は、鍵輪の軽さに残る。
ただ、読む順番を間違えると、また誰かが先に片づけられる。
マルタが歩き出す。
腰の鍵輪が鳴った。
足りない音だった。




