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「金食い虫」と呼ばれた偽物令嬢ですが、静かに下がるつもりはありません  作者: neene


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第16話 呼び鈴のない小客間

 南棟小客間の前では、花の匂いが先に立っていた。


 廊下の奥は、昼の光が細い。

 窓はあるが、庭へ向いていない。壁の厚みで、外の声も削られて届く。

 その静けさの中で、扉の前だけが新しかった。


 小さな花瓶。

 替えたばかりの敷布。

 扉脇の小卓。

 そこに伏せられた白い札。


 マルタは札へ手を伸ばさなかった。


「記録してからです」


 彼女は言った。


 ヘレンが灯明皿の木箱を床へ置く。

 イリナは少し後ろに立った。

 自分の名が出た場所から、まだ離れきれていない立ち方だった。


 マルタが紙を広げる。


 南棟小客間前。

 花瓶あり。

 小卓あり。

 白札一。

 立会人、エドガー、クラウディア、リゼット、女主人頭マルタ、夫人付き控え係イリナ、夫人付き侍女ヘレン。


 そこまで書いてから、札を返した。


 南棟整備済。


 字は整っている。

 帳場の丸い字ではない。夫人付きの控え札に近い、細く揃った字だった。

 ただ、端の墨が少し滲んでいる。急いで伏せた札だ。


「整備済」


 クラウディア様が読んだ。


「誰の部屋として」


 誰も答えない。


 マルタは扉へ向いた。

 鍵穴の縁に目を落とす。


 古い真鍮の周りに、薄く油が光っていた。

 その下には、削れた木粉がほんの少し残っている。


「鍵は使われています」


 マルタが言った。


「開きますか」


 エドガー様が訊く。


 マルタは取っ手に触れた。

 押す。


 扉は、音もなく開いた。


 鍵は掛かっていなかった。


「抜いた鍵で、閉じたわけではないのですね」


 クラウディア様が言う。


「はい」


 マルタは扉の内側を見る。


「開けるために使われ、そのまま戻されていません」


 私は鍵穴の内側を見た。

 内側には、鍵を差し込む穴がない。

 小さな掛け金が一つあるだけだ。


 中から閉じるには足りない。

 外から開ける人間のための扉だった。


 マルタが記録に加える。


 鍵穴周辺油跡あり。

 外側開錠痕あり。

 室内側、鍵穴なし。

 内掛け金一。


 それから、部屋へ入った。


 南棟小客間は、思っていたより狭かった。


 寝台。

 小机。

 椅子一脚。

 壁際の衣装掛け。

 窓辺の花瓶。

 灯り台。


 どれも使えるように置かれている。

 だが、長く過ごすための部屋ではない。


 寝台の布は張られていた。

 寝返りを受ける余りがない。

 端までぴんと引かれ、見せる面だけが整っている。


 小机の上には、四角い跡があった。


 盆の跡だ。


 白布の繊維が、机の角に一本ひっかかっている。

 細い銀の丸跡も残っていた。蓋つきの器を置いた跡だ。


 私は、白布の盆が廊下に置かれていた時のことを思い出した。


 白布のかかった、一人分の盆。

 南棟小客間へ回るはずだった盆。


 ここに置かれる予定だった。


「盆を」


 私が言うと、ヘレンの手が木箱の縁で止まった。


「昼の別盆と同じ大きさです」


 ヘレンは言った。


「この机に置けるように、布を小さく折ります」


「主卓の皿ではありませんね」


「はい」


「一人で食べるための置き方です」


 ヘレンは返事をしなかった。


 マルタが机の跡を書き取る。


 小机上、盆跡あり。

 白布繊維一。

 銀蓋跡と思しき丸跡あり。


 クラウディア様が部屋の奥へ進んだ。


「私を迎える部屋として整えた、と言っていましたね」


 イリナは目を伏せる。


「奥様は、そう」


「なら、なぜ椅子が一脚なのですか」


 クラウディア様は椅子を見た。


「私を迎える部屋なら、母と話す椅子が要ります。侍女が控える場所も要ります。荷を広げる台も必要です」


 椅子は一脚だけ。

 小机も一つ。

 衣装掛けは空で、掛け具も二本しかない。


「ここは、迎える部屋ではありません」


 彼女は言った。


「待たせる部屋です」


 その声は大きくなかった。

 だから、壁に残った。


 私は灯り台へ近づいた。


 灯明皿は下げられている。

 だが、台の上に煤の輪があった。

 指で触れなくても分かる。油が熱で薄く広がり、そこに灰が重なっている。


 ヘレンが持つ木箱の中には、南棟小客間の灯明皿がある。

 短く焼けた芯。

 濃い煤。

 長く火を入れた跡。


 火は、ここで使われた。


「昨夜、この部屋に火を入れた」


 エドガー様が言った。


「はい」


 ヘレンが答える。


「一昨日の夕刻から支度、と言いましたね」


 クラウディア様が確認する。


「はい」


「リゼット様への通告より前」


「……はい」


 イリナが小さく息を吸った。


 自分が言ったことではない。

 だが、同じ前室を通って動いた支度だ。聞こえないふりはできない。


 私は窓辺を見た。


 窓は開く。

 ただし、外は庭ではない。

 細い内庭と、洗い場へ続く通路だけだ。

 正門も大広間も見えない。


 声を出しても、主棟には届かない。


「呼び鈴は」


 私が言った。


 部屋の中が止まった。


 寝台脇の壁には、呼び鈴の金具だけが残っていた。

 紐がない。

 房もない。

 引けば使用人を呼べるはずの場所に、金具だけが白く光っている。


「外したのですか」


 クラウディア様が訊いた。


 ヘレンが答える前に、イリナが言った。


「修繕中と聞きました」


「誰から」


「奥様の控え室で」


「いつ」


「昨日の夕刻です」


「鍵が動いた時刻と同じですね」


 イリナは黙った。


 マルタが壁へ近づく。


 金具の下、紐が通っていた跡だけが薄く残っている。

 周りの壁紙より、そこだけ色が白い。


「外したばかりです」


 マルタは言った。


「古い紐なら、壁の色がもっとなじみます」


「呼び鈴の紐はどこへ」


 エドガー様が言う。


「通常なら、修繕箱です」


 マルタは答えた。


「この部屋の修繕箱は」


「小机の下です」


 ヘレンが言った。


 全員の目が小机へ向く。


 私はしゃがみ、下を見た。


 小さな木箱がある。

 蓋には薄く埃が積もっていた。

 だが、取っ手だけが拭われている。


 触る前に、マルタが止めた。


「私が開けます」


 記録に、修繕箱の位置と状態が加えられる。

 それから、マルタが蓋を開けた。


 中に、呼び鈴の紐はなかった。


 代わりに、細い紙片が一つ入っていた。


 南棟備品一式。


 クラウディア様の目が、その文字で止まった。


「備品」


 紐のない壁の前では、軽い言葉だった。


 マルタが紙片を摘まみ、薄紙の上に置く。


「呼び鈴の紐がない部屋に、備品一式の紙片だけが残っている」


 エドガー様の声が低い。


 ヘレンは俯く。

 イリナは壁を見ている。


 私は小机の盆跡をもう一度見た。


 ここで食事をする。

 ここで待つ。

 呼び鈴はない。

 窓の外は主棟へ続かない。

 鍵は外から使われ、内側には鍵穴がない。


 声を出すための紐だけが、先に外されていた。


 腕の内側が痛んだ。

 薄箱の角が、同じところを押し続けている。

 私は持ち替えなかった。


「ここに私を置けるようには、なっていますね」


 言うと、部屋の空気が一度沈んだ。


 誰も否定しない。


 否定できる形にしていなかったからだ。

 戻る娘のための部屋。

 南棟整備。

 控え棚戻し。

 備品一式。

 別盆。


 名はいくつもある。

 でも、使い方は一つしかない。


「本人が嫌だと言えば」


 イリナが小さく言った。


 全員が彼女を見る。


「いえ」


 彼女はすぐに言い直した。


「そういう話を、控え室で聞きました。本人が疲れていると言えば、南棟で休ませる、と」


「本人とは」


 クラウディア様が訊く。


 イリナは私を見なかった。


「リゼット様です」


 その名前が、部屋の中に落ちた。


 ようやく、ここが誰のために使われる予定だったのか、言葉になった。


「私は疲れていると言いましたか」


「聞いておりません」


「では、誰が言う予定でしたか」


 イリナは答えない。


 ヘレンが、灯明皿の木箱を持つ手に力を入れた。


「奥様が」


 彼女が言った。


 イリナがヘレンを見る。


「奥様が、昼のあとでそう言えば通る、と」


 ヘレンの声は震えていない。

 ただ、短かった。


「席で疲れたように見えれば、南棟へ。そうでなければ、部屋の話の途中で」


「部屋の話」


 私は、昼席の終わり際に夫人が言った言葉を思い出した。


 午後に少し、部屋の話をしましょう。


 クラウディア様のための響きで、私の部屋を動かす声。


 ここにつながっていた。


 マルタが記録に書き加える。


 南棟備品一式紙片あり。

 小机上、別盆跡あり。

 南棟休ませ予定との発言あり。


 イリナとヘレンの名前も書かれた。


「オズワルドの名は出ましたか」


 エドガー様が訊く。


 ヘレンは首を振る。


「この部屋では聞いておりません」


 イリナも同じく首を振った。


「ですが、控え束の時にはいました」


 イリナが付け加える。


「夫人の控え室に」


 エドガー様は頷かなかった。


「この部屋の記録を持つ」


 マルタが返事をする。


「承知しました」


 クラウディア様は呼び鈴の金具を見ていた。


「迎えるためなら、呼ぶ紐を外さない」


 その言葉は、私へ向けた慰めではない。


 だから、聞けた。


 クラウディア様は呼び鈴の金具から、小机の盆跡へ視線を移した。


「整える、ですか」


 それ以上は言わなかった。


 ヘレンが顔を伏せた。

 イリナは何も言わない。


 私は小客間の中を見回した。


 火の跡。

 盆の跡。

 鍵の跡。

 呼び鈴のない壁。


 全部が、同じ方向を向いている。


 迎える部屋なら、人を呼ぶ紐を外さない。

 休ませる部屋なら、外からだけ使う鍵にしない。


 マルタが記録紙を畳む。


「この部屋は封じますか」


 エドガー様が訊く。


「封じます」


 マルタは答えた。


「ただし、女主人頭の封ではなく、公爵様の確認封が必要です。私の封では、また私が整えたことにされます」


 その判断は正しかった。


 自分の名で部屋を封じれば、自分がその部屋を認めたことにされる。


「父上のところへ戻る」


 エドガー様が言った。


「このままか」


 クラウディア様が部屋を見た。


「このままです」


 マルタは答えた。


「動かす前に、見せます」


 私は薄箱を抱え直した。


 南棟小客間の扉は開いている。

 呼び鈴の紐はない。

 小机には、盆の跡が残っている。


 部屋は何も言わない。


 それでも、残ったものは多すぎた。

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