閑話 サルワタの優しい掟 3
2016/04/07 4:10
更新後の本文後半に、大幅な加筆修正を加えました。
その日、わたしは旦那さまの執務机に向かっていた。
目の前には上等な装丁を施された分厚い本。
「勅令とは、国王陛下のみが発する事の出来る、法的拘束力のある口頭命令を差す。また上意とも言い、これが発令された際は、何ぴともこの命令が他のあらゆる法令を優先するものである」
書いてある内容はとても難しかった。
文字は北のミノタウロスのつかうものとほとんど同じで、一部の表現だけがこの蛮族の王国で使われているニュアンスに書き換えられている程度で、理解はできる。
けれども。
文字の意味が理解できる事と、内容が頭に入って来るかどうかは別問題なのだ。
「勅許とは、国王陛下によって許諾され、宮廷による上奏を経て発布された免状を差す。国法に定められない命令を実行する際に制定される」
蛮族の法律は、この誇り高きミノタウロスのわたしにはさっぱりわかりませんよう。
何で国法が存在しているのに、国法より優先される命令なんか存在しているのか意味不明である。
王が凡愚であれば、きっとこの国は傾てしまうのではないか。
そんな危惧をしながら羊皮紙のページをめくり、次の法律を音読するのだった。
「勅使とは、国王陛下が送り出す使者の事を差す。勅令を伝える書簡、あるいは勅許の免状を伝達する役割を担い、国王陛下の代理人としての資格を持つ。無下には出来ない」
わたしはサルワタの開拓村の騎士夫人だ。
騎士夫人というのは領内の警備を担当し、徴税の監督責任を持っている幹部なのだそうだ。
ちなみにサルワタの村には騎士さまがひとりしかいないらしくて、それがわたしの旦那さまだった。
ひとくちに騎士は警備を担当すると言っても、いったい何をするのがお仕事なのだろう。
この開拓村に嫁いできてからこっち、前村長のドロシアさまに命じられた日課が、国法全書というこの国の法律を集めた分厚い本と、過去にこの村で発布されたお触れを治めた薄い本を読み続ける事だ。
この作業は何順もしたか知れない。
法令はこの国のお貴族さまの武器なのだそうだ。
解釈を色々と変えながら、あの手この手で相手を騙すのだそうだ。
おかしなはなしですよう。
コロコロと解釈が変えられる法なら、そんなものは法とは言えないんじゃないかとわたしは思った。
まだ村で発布された過去のお触れをしっかりと読み返す方が、意味があると思う。
村や集落で起きた諍いを治めるために作られたルールが大半で、そのルールに従って領民たちが生活するのだ。
領内の警備を担当する騎士としては、このお触れの収められた薄い本を覚えていて、いざ村で揉め事が起きた時に役に立てることは大事というわけだ。
「だから、わたしも旦那さまのお仕事をお手伝いするために、お触れ書の内容を暗記しなくっちゃ……」
どうしてわたしが法とお触れを勉強しなくちゃいけないかと言うと。
それはわたしが騎士夫人だから。
蛮族の国では、騎士の奥さんにも騎士と同等の権利が与えられるのだ。
つまり、騎士たる旦那さまシューター卿が不在の間は、タンヌダルク卿が騎士という事になる。
もし旦那さまならば、領内で揉め事が起きてもその蛮族に並ぶ者なき武辺か、腰の低さでうまく纏めてしまうだろう。
けれどもわたしはこの村ではよそ者だ。
よそ者だというだけで角やお尻を見られては後ろ指を差されているのだから、対抗する手段は必要だ。
――だから法はそなたにとって武器となり、過去のお触れは領民と接する際にはそなたにとって知恵の拠り所となるであろう。
村長だったころのドロシアさまが、わたしにそう言ったのだ。
夏のはじまる頃、ほんのひと月半ほど前の事だけれども、あの時は花嫁修業にどうして法律の勉強ばかりさせられるのかと思っていたけれど、なるほど。
考えてみれば、わたしはミノタウロスと蛮族の懸け橋となる立場だから、この国の風習を勉強する事はきっと役に立つのだと思う。
そう信じないとやっぱり法の勉強をするのは大変だった。
国法全集とお触れ書きの書かれた薄い本をお勉強し終えれば、次は歴史の本だ。
蛮族の歴史なんて、野蛮な事しか書かれていないのに。
でっ、でも役に立つからこれは。
役に立つからいつか!
やくにた……
ふに……
気が付けばわたしは、よだれを垂らして寝ていたらしい。
旦那さまの執務机で心地よくお昼寝をしていると、わたしは夢を見た。
何だろう。執務机に被せてあったテーブルクロスから旦那さまの匂いがしたのだ。
この布、以前は何に使っていたものかしら。
おかげでわたしは夢の中で、長らくお会いしていない旦那さまと邂逅出来ましたよう。
◆
わたしの見た夢の出来事は、まだ旦那さまがサルワタのお屋敷で寝食をご一緒にしていた頃の風景だった。
ただし、まだ引っ越す前に小さな小屋みたいなお家での事ではなく、わずかの間だけ一緒に過ごしたこの新しく大きな屋敷での出来事だった。
夢の中の出来事だから、わたしにとって都合がいい様に妄想が膨らんでいるのかも知れない。
そこでは旦那様さまがいつもと同じ様に、お屋敷の中にいるからと油断して全裸だった。
まったく。
蛮族とは言えお貴族さまの端くれなのだから、旦那さまももっと服装には気を使ってくださいと義姉さんがお叱りになる。
けれども旦那さまは苦笑をすると、暑いんだからしょうがないだろうと悪びれも無く全裸のままだった。
さすがは全裸を貴ぶ部族というだけはありますね!
そうしてエルパコちゃんとクレメンスを連れて、表の畑を耕しに野良仕事へとお出かけになる。
残ったわたしは義姉さんと、お洗濯をしたり正午に食べるパンを焼くために釜に火を淹れたり、教会堂へお勤めに出ていたガンギマリーさんと一緒にお裁縫をしたりするのだ。
何という日常、何という平和。
午後からはもちろん兄さんとドロシアさま、それにギムルさんを連れたタンシエルが訪ねて来て、みんなでお茶の時間を過ごすのだ。
家族がみんな揃い踏みをして、シューターさんを囲む様にしてみんなでお話をする。
今はみんなが忙しく動き回っていて、旦那さまは新しい奥さんをいっぱい作って家族が増えたのに。
わたしたちはまだ、一同揃い踏みをしたことが無いのだ。
何という日常、いや何という非日常。
夢の中はわたしの願望そのものの妄想だったのだ。
お夕飯は野牛自慢のシチューを頂いて、家族でゆっくりと陽の落ちていく時間を過ごす。
今夜、旦那さまのお相手をするのはわたしだった。
どこか口寂しそうに指をくわえていたエルパコちゃんに向かって、わたしは言う。
「何事も順番が大事なのですよう。家族も一杯増えましたし、わたしの次はエルパコちゃんです」
そうするとエルパコちゃんは「わかったよ」と口数少なくこくりとうなずいて、自分の部屋に戻った。
エルパコちゃんは耳がいいから、もしかすると旦那さまと紡ぐ夜の営みは、みんな聞かれてしまうかもしれない。
旦那さまと義姉さんが、お昼の合間にふたりきりで、声を押し殺して愛を確かめ合っていた事も、わたしとエルパコちゃんは知っていた。
けれども。
わたしたちは家族なのだから、隠し事は無駄な事なのかもしれない。
だって、わたしだって旦那さまと義姉さんの逢瀬を、エルパコちゃんと密かに聞き耳を立てたもの。
きっとこれも他の奥さんたちに聞かれているのだと思うと、わたしはどこか不思議な気分になるのだった。
ところが旦那さまに。
わたしの素足をぺろぺろとされてしまった。
はあン旦那さま……。
こ、こういう事は義姉さんたちに聞かれていないところでお願いします。
壁の向こう側では、他の奥さんたちが……
でももう、我慢できない。
……あっあっ。
もっと、もっと足をお舐めください!
◆
「――奥さま、タンヌダルク奥さま。駄目だあ、奥さまはひとつも起きやしない。幸せそうな顔をしているだす」
「本当ですねクレメンス。きっと魂が異世界に旅立っているのですよ野牛の奥さんは」
「アンギッタさま、縁起でもねぇ事を言うもんじゃないだす。タンヌダルク奥さまの旦那さまの奥さまは騎士修道会の守護聖人さまだすから、めったな事を言うとバチが当たりますよ」
「わけがわからないわ、クレメンス。奥さんの旦那さんの、その奥さんはつまりタンヌダルクさんじゃないの? やはり肥えたエリマキトカゲの舐め舐めでは満足してないのよ。ここはひとつスルーヌ騎士爵の娘であるわたしが、起こして差し上げましょうか」
「ちょ、アンギッタさまひざまずいて何をなさるんだすか?! お貴族の、お貴族の矜持は無いだべか!!」
「キッキッブべぇ……」
せっかく心地よい夢を見ていたというのに、とても外野がうるさかった。
誰だろう。この声はクレメンスと、アンギッタおばさん?
あン、いいところなのに……
「奥さま、奥さま、とにかく起きたください! ゴブリンの親方さんが呼んでいるだす!!」
そんな言葉が耳元に聞こえてきて、
「ふぁ!」
わたしは眼を覚ました。
執務イスに浅く腰かけていたわたしは、足を放り出す様にして寝ていたらしい。
その足を、あかちゃんが一心不乱にぺろぺろしているではないか。
で、でも見られながらこういうのは好きじゃないし、あかちゃんもすごく嫌そうな顔をしているし……
違う、そうじゃない!
「だ、旦那さまは?!」
「おらの見た事も無い旦那さまは、出張に出かけていているわけがないだすよ。そんな事よりお客さんだす。ッワクワクゴロの親方さんが来ているだす。急用だす!」
いつまでも足をあかちゃんに舐められている場合ではない。
わたしがあわてて足を引っ込めてスリッパに指先を通すと、ねっとりあかちゃんの唾液が広がって妙な履き心地の悪さが皮膚に纏わりついていた。
このぬめぬめは、罪悪感のぬめぬめだ。
体裁を取り繕いながらコホンとひとつ咳払いをする。
「なななな、何であかちゃんはわたしの足を舐め舐めしていたのですかああ?!」
「こうでもしないと、タンヌダルクさんは起きないと思ったの。わたしが提案したのだけれど、しょせんトカゲには荷が重かったと見えますね」
「キュブブベー!」
立ち上がって、わたしは激昂した。
あかちゃんだって抗議していますよう!
「変な事をあかちゃんにやらせるんじゃないですよ。馬鹿なんですか?!」
「馬鹿な事を最初にはじめたのは奥さんだべ。ほれ、お客さんを待たせているのだから、急がねえと」
「…………」
バツの悪い顔のままクレメンスに背中を押されて、わたしはゴブリンさんのところに顔を出す事になった。
きっといまのわたしは、恥ずかしさから顔を真っ赤に染め上げている事だろう。
もう二度と、あかちゃんに足を舐めさせないとわたしは心に誓った……
◆
そんな辱めを受けたわたしに、もうひとつ冷や水を浴びせかける様な発言をしたのがッワクワクゴロさんだった。
あかちゃんを抱き上げて居間までやって来たところ、ソファにも腰かけずにわたしを待っていたらしいゴブリンさんがこちらを向いて口を開く。
「お昼寝をしていたところ悪いんだが」
「な、何でわたしがお昼寝してたって決め付けるんですかあ」
「よだれ、頬っぺた」
「うっ……」
あわてて頬っぺたのよだれをぬぐったわたしの前に、ゴブリンの猟師親方はとても生真面目な顔をしていた。
茶化すつもりでそういう風に口にしたんじゃない。何かあったのだ。
わたしはゴクリとつばを飲み込む。
「タンヌダルク。お前さん、ガーゴイルって知ってるか」
「し、知らないです」
「簡単に説明すると、岩みたいにゴツゴツしたトカゲの親戚だ。ワイバーンよりは小さいが翼が生えている」
その岩みたいなトカゲの親戚が、サルワタの森の中で目撃したという情報が出たのだと言う。
サルワタ領内に広がっている樹木の原生林であるけれど、湖畔の城と集落を建設するために、大量の材木が伐採されている。
伐採は出来るだけ固まって行わない様、間引きするみたいにして工夫を凝らしているらしいのだけれど。
そのために広大なエリアに領内の木こりたちが分け入っていたらしい。
わたしたち野牛の一族は、洞窟のある山をまたいだ向こう側の森しか知らなかったが、こちら側のサルワタ領内にも、森は大きく広がっているのだ。
「どうやらその途中でな、ガーゴイルらしい姿を見たというヤツがいたんだ。目撃者はお前さんところの部族の人間と一、見張りに付いていた周辺集落の猟師だ」
「そ、それは確かなのですかあ?」
「間違いない。見張りだったのは若造だが、腐っても猟師だからな」
その知らせをわたしの所に取り急ぎ、知らせに来てくれたのだと言う。
ッワクワクゴロさんは尚も言葉を続ける。
「村長さ……いやアレクサンドロシアさまは、今留守にしているので、騎士夫人であるお前さんのところに話を持ってきた。騎士は村の警備責任者だからな、お前さんはこれから、ギムル村長のところに一緒に来てくれないか?」
わたしと険しい表情のゴブリンさんを見比べたバジルちゃんは「キュプ?」と小首をかしげて不思議そうな顔をしていた。
あかちゃん。あなたの遠い親戚のひとが、森の中に姿を現したんですって。
だ、旦那さま。どうしましょう?!




