5 大きな子ども
侍女の誘導で、慌てて向かった玄関脇の部屋の周りには、緊張感が漂っていた。使用人らに何かを命ずるリュシアンの声が廊下にまで響き渡っており、カリーナの背筋は凍りつく。
「マル! ユリヤ!」
飛び込んだ部屋の中には、ソファに寝かされているユリヤと、護衛兵に抱かれているマルフェン。どちらもずぶ濡れで、髪の毛や服には葉っぱや草が絡んでいるが、目つきから一目で助かったのだとわかり、カリーナは安堵する。
護衛兵の腕から下ろされるなり、マルフェンはユリヤの元へ駆けて行き、手を握って必死に名を呼び掛ける。ユリヤの方がぐったりしているものの、顔はマルフェンの方がずっと青白かった。
カリーナは子どもたちの傍へ近付き、マルフェンの背にそっと手を置く。カリーナの存在に気付いたマルフェンは、青い瞳から大粒の涙を流し、わっとカリーナに抱きついた。
リュシアンはそんなマルフェンの様子を見て、険しい顔をほんの少し和らげる。カリーナにタオルを手渡すと、手分けして子どもたちの身体を拭いた。
医師の診断では、目立った外傷もなく、意識もしっかりしているため特に心配は要らないとのことだった。マルフェンよりも水を多く飲んでしまったユリヤは、念のため数日安静にするよう言い渡された。
兵の報告によると、足を滑らせ湖に落ちたユリヤを助けようとして、マルフェンも溺れかけたという。朝の見回りをしていた兵が偶然そこを通りかかり、すぐに二人を救出できたのは不幸中の幸いだった。
リュシアンとカリーナは、お風呂で温まり充分休んだマルフェンの元を訪れる。なぜ早朝に二人きりで湖に行ったのか、その理由を訊くためだ。
リュシアンの問いに、マルフェンはせっかく赤みが差してきた顔をまた青くしながら答えた。
「……石を投げる練習をしようとしたんです。こっそり練習して、カリーナを驚かせてやろうとして。一人で行こうとしたけど、ユリヤも起きて僕の部屋に来ちゃって。バレたら嫌なので、一緒に連れて行きました」
「石を投げる練習とは?」
リュシアンに気圧されるマルフェンの代わりに、カリーナが手を挙げさらりと答える。
「水切りといって、水面に石を投げて跳ねさせる遊びです。私が子どもたちに教えました」
すると、途端にリュシアンの顔が険しくなる。
「水辺には近付かないよう、子どもたちには厳しく言い聞かせていたのに。なぜそんな危険な遊びを教えたんだ?」
危険を予知することに慣れているカリーナとはいえ、まさか水切りのためだけに、早朝に子ども二人だけで屋敷を抜け出し、湖へ行くとは思わなかった。だがよくよく考えれば──
昨日のおやつの時間に、「カリーナ、また石投げの勝負しよう! 僕、今度は絶対負けないから!」と意気込んでいたマルフェンの様子から、こういう行動も起こす恐れがあると予測し、前もって注意すべきだったのだ。
落ち度を認め、謝罪しようとしたカリーナを、マルフェンの声が遮る。
「違う! カリーナは悪くない! ……僕は、本当はずっと前から、一人で湖で遊んでたんです。カリーナにも、子どもだけで湖に行くなって、遊ぶ時は必ず大人と一緒にって注意されてた。なのに、僕が無視して勝手に行ったんです。だから、カリーナは悪くありません!」
カリーナを必死に庇うマルフェンに、リュシアンは驚く。
繊細かつ賢すぎる故か、妹のユリヤ以外には高い壁を作り、決して深くは踏み入れらせない難しい甥。初めて会った頃に比べれば、だいぶカリーナに心を許してはいるとは感じていたが、それはカリーナに懐いているユリヤを挟んでのこと。兄として、ユリヤが慕う義母に気を遣っているだけだと思っていたからだ。
そんなリュシアンとは反対に、カリーナはあまり驚かなかった。マルフェンは生意気だしまだまだ赤ちゃんなところはあるが、心根が優しく素直な子だ。自分が起こした事故で、人が責められているのを黙って見ていられるような子ではないとわかっていたからだ。相手がたとえ、魔女のような継母であっても。
瞳に涙を溜め、高ぶる感情をふうと荒い息で逃すマルフェンを、カリーナは思わず抱き締めたくなる。だが、これは屋敷を追い出してもらうチャンスだと思い、ぐっと堪えた。
幼い妹を危険に晒したのは、元々危険な遊びを繰り返していたマルフェンのせいだ。自分には一切責任はない、むしろ巻き込まれて迷惑だと冷たく突っ跳ねれば、リュシアンの不興を買えるのではないかと閃いたのだ。
やっと訪れたチャンスだというのに、自分を責めて落ち込んでいる子どもを、さらに責めるような発言など簡単にできない。もごもごする口と、抱き締めたくてムズムズする手との間で、カリーナは葛藤していた。
そうこうしている間に、リュシアンはマルフェンの前に跪き、小さな頭にポンと手を置いた。
「マルフェン。たとえユリヤのためでも、決して危険なことをしてはいけないよ。我が家の敷地内で何かあったら、すぐに笛で助けを呼べと、日頃から訓練していただろう?」
リュシアンはそう穏やかに諭しながら、マルフェンの首にかけられた紐を指でつまんだ。
公爵一家は、護身のために常にこのペンダント型の笛を持ち歩いており、兵もこの笛の音に即座に反応するよう訓練されている。カリーナも一応渡されてはいたが、継母仕様のドレスには合わないため、最近はどこかの引き出しへ仕舞い込んでいたのだ。
(あの笛、高貴な方々にとっては結構重要なアイテムだったのね。どうにかゴージャスに改造して、私も身に着けとこうかしら。……いやいや! もうじき追い出されるんだから、余計なこと考えなくていいのよ! さあ、史上最悪の継母カリーナ。早くあの言葉を言っておしまい。『マルフェンは悪い子、迷惑だ』って)
平和に収まろうとしている雰囲気にカリーナは焦るが、言えないものはどうしても言えない。喉を掻きむしり、ぐぎぎと苦しむ彼女をよそに、マルフェンはリュシアンに素直な気持ちを伝えた。
「僕は泳げるから、絶対にユリヤを助けられると思ったんです。でも、ユリヤに掴まれて身体が重くなるし、どっちが上か下かわからなくなっちゃって」
「それが水の恐ろしさなんだよ。人を助ける時は特に危険なんだ」
「……はい、叔父上。もう二度としません」
「自分の命を守ることは、思う以上にとても難しいんだ。だから、どんな時も、自分を何より大切にしなければならないと、心に留めておきなさい」
ほろりと涙をこぼすマルフェンを、リュシアンは胸に抱き寄せる。小さな肩に頭を乗せ、リュシアンは震える声で呟いた。
「お前たちが無事で、本当によかった……」
そんな二人を見て、カリーナも涙していた。育児とおさらばできる、最大のチャンスを逃した不甲斐ない自分に──
マルフェンが泣き止むと、リュシアンは部屋の隅で鼻をかむカリーナを見つけ、向かい合った。
「さっきは申し訳なかった。良き母親になろうと日々尽くしてくれているあなたを、私は一方的に責めようとしてしまって」
バカっ! 一方的に責めてよかったのよ! 最悪な継母になりたいのにうまくいかないだけなんだから! とは言えず……
カリーナは引きつった笑みを浮かべ、「イイエ。オキニナサラズ。オコサマタチガブジデヨカッタデスネ」と適当に返した。
その事件から数日後、ユリヤの体調がすっかりよくなった頃、四人は湖畔を訪れた。
自分にも水切りを教えてほしいと、リュシアンがカリーナに頼んだことがきっかけだった。
ソードマスター級の剣の腕前を誇るだけあって、運動神経抜群のリュシアン。あっという間にカリーナとマルフェンの記録を追い抜かし、十回も跳ねさせられるようになった。
(この人も大きな子どもね。マルやユリヤと変わらないわ)
額に汗の玉を浮かべ、マルフェンと本気で競うリュシアンの姿に、カリーナは赤ちゃんの口のにおいを嗅いだ時のような甘酸っぱい気持ちになる。
溺れかけたことで最初は湖を見るだけで震えていたユリヤも、普段は物静かなリュシアンが全力で水切りを楽しむ姿を見て、自然と明るい笑顔が戻っていた。
夕陽が波紋を赤く染め出した頃、四人は湖を後にした。屋敷への帰り道、遊びながら先を行く子どもたちの後を、夫婦はゆっくりと付いていく。
夕焼けにも負けない、真っ赤なドレスに真っ赤なアクセサリーに真っ赤な口紅のどぎついカリーナに、リュシアンは勇気を出して言った。
「カリーナ。あの……今夜、二人で話をしないか? その……子どもたちが寝た後で」




