第九十六話 お楽しみ
朝食を終えたリリアーナは、自室の窓辺で静かに本を開いていた。
窓から吹き込む爽やかな風が、薄いレースのカーテンを優しく揺らす。
右手の傷も日に日に癒え、包帯はもう外れていた。
まだ少し力を入れると痛みは残るものの、日常生活にはほとんど支障はない。
そんな穏やかな時間を過ごしていると、部屋の扉が軽やかに叩かれた。
「お嬢様。」
聞き慣れた声に、リリアーナは本を閉じる。
「どうぞ。」
扉が開き、クララがいつも以上に明るい笑顔で部屋へ入ってきた。
その表情に気付き、リリアーナは思わず首を傾げる。
「何だか、とても嬉しそうね。」
するとクララは、にこりと微笑みながら言った。
「お嬢様、お楽しみをお持ちしました。」
「お楽しみ?」
「はい。」
そう答えたクララは、後ろに隠していた両手をゆっくり前へ出す。
そこには、淡い藤色のリボンで美しく包まれた小さな箱があった。
「こちらでございます。」
「まあ……!」
リリアーナは目を丸くする。
「王都で今、一番人気のお菓子なんですよ。」
「これが……?」
「はい。毎朝開店前から長い行列ができるほど人気で、数量限定のため、並んでも買えない日があるそうです。」
クララは少し照れくさそうに笑った。
「今日は開店前から並んだ甲斐がございました。」
「まあ……そこまでしてくださったの?」
「お嬢様に笑顔になっていただきたくて。」
その一言に、リリアーナの胸がじんわりと温かくなる。
「ありがとう、クララ。」
優しい笑みを浮かべながら、クララは箱の蓋をそっと開けた。
ふわり――。
甘く華やかな香りが部屋いっぱいに広がる。
箱の中に並んでいたのは、幾重にも重なった黄金色のミルフィーユ。
薄く焼き上げられたパイ生地の間には、淡い桃色のクリームがたっぷりと挟まれ、その上には桃色や乳白色の小さな花びらが一枚一枚丁寧に飾られていた。
まるで春の庭園を、そのまま小さな箱へ閉じ込めたような美しさだった。
「食べられる花びらでございます。」
クララが嬉しそうに説明する。
「春にしか咲かない花を使った、この季節限定の『春花のミルフィーユ』です。」
「素敵……。」
リリアーナは思わず見惚れてしまう。
こんなに美しいお菓子を見るのは初めてだった。
「クララ。」
「はい。」
「一緒にいただきましょう。」
クララは驚いたように目を瞬かせた。
「ですが、私は……。」
「これはお願いよ。」
そう言って微笑むリリアーナに、クララも小さく笑った。
「……では、ご一緒させていただきます。」
ナイフを入れると、さくりと心地よい音が響く。
一口頬張ると、香ばしいパイ生地が軽やかにほどけ、なめらかなクリームが舌の上で優しく溶けていく。
ほんのり甘酸っぱい果実の風味に重なり、花びらからは上品で優しい香りがふわりと広がった。
まるで、春そのものを味わっているようだった。
「……おいしい。」
自然とこぼれたその言葉に、クララはほっと胸をなで下ろす。
「お気に召していただけて、本当によかったです。」
リリアーナはもう一口、小さく頬張る。
そして、事件のあと初めて、肩の力を抜いて笑った。
「ふふっ……本当に、とても美味しいわ。」
「……ありがとう、クララ。」
その笑顔を見たクララは、小さく頭を下げる。
その温かな時間は、傷ついた心を少しずつ優しく包み込んでくれていた。
私も食べたい春花のミルフィーユ




