第九十四話 静かな朝
朝日が、カーテンの隙間から部屋へ差し込んでいた。
窓の外では、小鳥たちが穏やかにさえずっている。
リリアーナはゆっくりと瞼を開いた。
ぼんやりと天井を見つめ、小さく息をつく。
「……朝。」
昨夜のような悪夢は見なかった。
耳を澄ませても、あの不気味な声は聞こえない。
静寂だけが、部屋を包んでいた。
「……静か。」
思わず零れたその一言は、どこか安堵にも似ていた。
ゆっくりと身体を起こそうとした瞬間、右手に小さな痛みが走る。
「……っ。」
白い包帯。
昨夜、侍医に巻いてもらったものだ。
そっと左手で包帯に触れる。
傷はまだ熱を帯びていた。
(夢じゃ……なかった。)
砕け散るグラス。
飛び散る破片。
響いた悲鳴。
そして――。
『君が、自分の意思であんなことをする人じゃないって、僕は信じてる。』
エリアスの穏やかな声が胸によみがえる。
思い出しただけで、張り詰めていた心が少しだけほどけていく。
(どうして……。)
理由なんて話せなかった。
何一つ説明できなかった。
それでも、信じてくれた。
「ありがとう……ございます。」
誰もいない部屋で、小さく呟く。
その時――。
コンコン、と控えめなノックが響いた。
「お嬢様、お目覚めでしょうか?」
「ええ、クララ。入って。」
扉が開き、クララがいつもの優しい笑顔で入ってくる。
「お加減はいかがですか?」
「もう大丈夫よ。」
そう答えると、クララはほっとしたように微笑んだ。
だが、その視線はすぐに包帯を巻いた右手へ向けられる。
「まだお痛みになりますか?」
「少しだけ。でも、大丈夫。」
リリアーナは安心させるように微笑んだ。
クララも笑みを返すものの、その表情にはまだ心配が残っている。
「旦那様も奥様も、お嬢様がお目覚めになるのをお待ちでした。」
「そう……。」
昨夜は心配を掛けてしまった。
きっと家族も眠れなかっただろう。
「お着替えのお手伝いをいたしますね。」
「お願い。」
窓から吹き込む朝風が、カーテンを優しく揺らす。
昨日までの緊張が嘘のように、穏やかな朝だった。
それでも包帯を見るたび、昨夜の出来事が胸によみがえる。
忘れられるはずがない。
けれど――。
『君は、一人じゃない。』
その言葉が、何度も心の中で響いていた。
リリアーナはそっと包帯を見つめ、小さく微笑む。
「……行きましょう。」
その表情は、昨日よりほんの少しだけ前を向いていた。




