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第九十三話 帰る場所


夜会は予定より早く幕を閉じた。


王宮の廊下を歩くリリアーナは、右手の包帯をそっと胸元に抱えていた。


エリアスはその歩幅に合わせるように、静かに隣を歩く。


二人の間に言葉はない。


それでも、その沈黙は不思議と苦しくはなかった。


王宮の正門へ着くと、アルディス公爵家の馬車が待っていた。


御者が扉を開ける。


「お送りいたします。」


リリアーナが馬車へ乗り込もうとした時だった。


「リリアーナ。」


エリアスの声に振り返る。


月明かりに照らされた彼は、優しく微笑んでいた。




「今日は何も考えなくていい。」


その言葉に、リリアーナは目を瞬かせる。


「ゆっくり休んで。」


短い言葉だった。


けれど、その優しさは胸に深く染み込んでいく。


「……ありがとうございます。」


小さく頭を下げると、馬車の扉が静かに閉まった。


馬車はゆっくりと王宮を後にする。


窓の外へ流れる夜景を眺めながら、リリアーナは包帯の巻かれた右手を見つめた。


まだ少し痛む。


だが、それ以上に心は静かだった。


『君は、一人じゃない。』


その言葉が何度も胸の中で響いていた。





 




「お嬢様がお戻りです!」


アルディス公爵邸へ馬車が到着すると、玄関の扉が勢いよく開いた。


オーウェンが深く頭を下げる。


「お帰りなさいませ。」


その後ろから、公爵夫妻が姿を現した。


「リリアーナ!」


母は娘の姿を見るなり駆け寄る。


そして右手の包帯が目に入った瞬間、表情を曇らせた。


「まあ……そのお手は……。」


何も言わず、そっとリリアーナを抱きしめる。


その温もりに、張り詰めていた心が少しだけほどけた。


「お母様……。」


「無事で、本当によかった……。」


震える声が耳元で聞こえる。


父も静かに近づき、安心したように息を吐いた。


「帰ってきてくれて、それだけで十分だ。」


責める言葉も、問いただす言葉もなかった。


その一言だけで十分だった。


階段から足音が響く。


「リリィ!」


ルシアンだった。


慌てて駆け下りてきた彼は、妹の前で立ち止まる。


包帯へ視線を落とし、眉をひそめた。


「……痛むか?」


「少しだけ。」


リリアーナが笑顔を作ると、ルシアンは困ったように息をつく。


「無理して笑うなくていいから。」


その言葉に、思わず笑みがこぼれた。


「ごめんなさい。」



リリアーナの言葉にルシアンは頭を優しく撫でた






「今日はもう休みなさい。」



父が穏やかに告げる。


「話はまた、落ち着いてからでいい。」


リリアーナは静かに頷いた。


「はい。」







部屋へ戻ると、クララが寝支度を整えて待っていた。


「お疲れ様でございました、お嬢様。」


リリアーナはベッドへ腰を下ろす。


静まり返った部屋で、包帯を見つめた。




今日一日たくさんのことがあった。





怖かった。


苦しかった。


それでも――。


私は帰ってこられた。


この家へ。


この場所へ。


気がつくと、一粒の涙が頬を伝っていた。


悲しい涙ではない。


安心したからこそ流れた涙だった。


クララは何も言わず、そっと毛布を掛ける。


「おやすみなさいませ、お嬢様。」


部屋の灯りが静かに落とされる。


リリアーナは目を閉じ、小さく息をついた。


(ただいま……。)


その呟きは、誰にも聞こえることなく、穏やかな夜に溶けていった。

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