第九十二話 そばにいるから
王宮の広間を後にする二人の背中を、多くの視線が見送っていた。
ざわめきは戻りつつあったが、誰も声を掛けようとはしない。
リリアーナは俯いたまま、エリアスに支えられて歩いていた。
右手はまだ熱を帯び、傷口がじくじくと痛む。
しかし、それ以上に胸の痛みの方が大きかった。
「侍医を。」
国王の落ち着いた声が広間に響く。
「すぐに控室へ案内しなさい。」
「はい。」
侍女たちは慌ただしく動き始める。
王妃は心配そうにリリアーナを見つめ、小さく胸元で手を組んだ。
「どうか……無事で。」
その優しい眼差しに、リリアーナは小さく頭を下げた。
やがて二人は、夜会の喧騒から離れた静かな控室へ案内された。
「少し染みます。」
侍医が傷口を丁寧に洗い流す。
細かなガラス片を一つずつ取り除き、薬を塗って包帯を巻いていく。
リリアーナは痛みに顔をしかめることもなく、ただ静かに手元を見つめていた。
「傷は深くありません。数日もすれば治るでしょう。」
「ありがとうございます。」
エリアスが代わりに礼を述べる。
侍医は一礼すると部屋を後にし、侍女も静かに扉を閉めた。
部屋には二人だけが残る。
窓の外では夜風が木々を優しく揺らしていた。
静かな時間が流れる。
やがて、エリアスが穏やかな声で口を開いた。
「……怖かったね。」
その一言に、リリアーナの肩が小さく震えた。
責める言葉ではない。
問い詰める言葉でもない。
ただ、その恐怖に寄り添うような優しい声だった。
「ごめんなさい……。」
堪えていた涙が、ぽたりと膝へ落ちる。
「私は……。」
震える声で言葉を紡ぐ。
「本当に……あんなことをするつもりじゃ……。」
涙で喉が詰まり、それ以上は続かなかった。
エリアスは静かに首を横へ振る。
「知ってる。」
リリアーナは驚いたように顔を上げた。
エリアスはまっすぐにリリアーナを見つめる。
「君が、自分の意思であんなことをする人じゃないって、僕は信じてる。」
その瞳に迷いはない。
疑いではなく、信頼だけが宿っていた。
「でも……。」
リリアーナは唇を噛む。
話したい。
前世のことも。
ゲームのことも。
あの声のことも。
全部話してしまいたい。
けれど、言葉にならない。
「話せない理由があるんだろう?」
エリアスは優しく微笑んだ。
「なら、無理に聞こうとは思わない。」
その言葉に、リリアーナは目を見開く。
「君が話せる日まで待つ。」
胸の奥が熱くなる。
理由を知らなくても。
何一つ説明できなくても。
信じてくれている。
それだけで救われる気がした。
リリアーナは涙を拭い、小さく息を吸う。
「……いつか。」
まっすぐエリアスを見つめる。
「いつか必ず、お話しします。」
エリアスは穏やかに頷いた。
「うん。その日を待ってる。」
静かな沈黙が二人を包む。
それは先ほどまでの重苦しい沈黙とは違う。
互いを信じる、穏やかな時間だった。
エリアスはゆっくりと立ち上がる。
扉の前で振り返り、優しく微笑んだ。
「今日はゆっくり休んで。」
少しだけ照れくさそうに笑って続ける。
「君は、一人じゃない。」
扉が静かに閉まる。
リリアーナは包帯の巻かれた右手をそっと見つめた。
まだ傷は痛む。
けれど、その痛みの奥には確かな温もりが残っていた。
(私は……一人じゃない。)
その小さな想いが、凍りついていた心を少しずつ溶かしていくのだった。




