第九十一話 差し伸べられた手
静まり返る会場。
先ほどまで響いていた楽団の演奏も止み、広間には重苦しい沈黙だけが流れていた。
床には砕け散ったワイングラス。
赤いワインが大理石の床へ広がり、その中に小さなガラス片がきらりと光を反射している。
ぽたり。
リリアーナの右手から、一滴の血が静かに落ちた。
「リリアーナ!」
真っ先に駆け寄ったのはエリアスだった。
震える右手をそっと包み込むと、砕けた破片が食い込んだ傷を見て、苦しそうに表情を曇らせる。
「こんなに切れて……。」
すぐにハンカチを取り出し、傷口へ優しく当てる。
「少し痛むけれど、我慢して。」
リリアーナは小さく頷いた。
けれど、その瞳はどこか遠くを見つめたままだった。
「……エ…リアス様。」
かすれた声で名前を呼ぶ。
「私は……。」
その先の言葉が続かない。
何を話せばいいのか分からなかった。
どうして身体が勝手に動いたのか。
どうしてグラスが砕けたのか。
誰にも説明できない。
「無理に話さなくていい。」
エリアスは静かに首を横へ振った。
「今は君の怪我が先だ。」
その穏やかな声に、張りつめていた心が少しだけ緩む。
その時だった。
「リリアーナ様!」
透き通るような声が聞こえた。
振り返ると、オリヴィアが心配そうな表情で駆け寄ってくる。
「お怪我を……!」
その顔に怒りはない。
責める色もない。
ただ目の前で怪我をした人を案じる、純粋な優しさだけがあった。
「こちらを……。」
オリヴィアは自分のハンカチを差し出そうとする。
その姿を見た瞬間、リリアーナの胸が締め付けられた。
(この子は……。)
(本当に優しい。)
ゲームで見た"主人公"ではない。
一人の少女として、目の前の誰かを心配しているだけだった。
もし、あのグラスが砕けていなかったら。
もし、自分の腕がそのまま振り抜かれていたら。
そう考えるだけで、全身が震える。
「ありがとう……ございます。」
やっと絞り出した声は、小さく震えていた。
オリヴィアはほっとしたように微笑む。
その笑顔が眩しくて、リリアーナは思わず目を伏せた。
周囲では、少しずつざわめきが戻り始める。
「突然グラスが割れたのか……?」
「そんなことがあるのか?」
「リリアーナ様もお怪我をなさって……。」
誰も状況を理解できていない。
ただ一つ分かるのは、リリアーナが傷つき、オリヴィアが無事だったということだけだった。
エリアスはリリアーナの肩をそっと支える。
「…歩ける?」
その問いに、小さく頷こうとした瞬間、膝から力が抜けた。
「……っ。」
倒れかけた身体を、エリアスがしっかりと受け止める。
「無理をしなくていい。」
その言葉は、とても優しかった。
リリアーナは静かに目を閉じる。
恐怖で冷え切っていた心へ、少しだけ温もりが戻ってくる。
それでも――。
床へ散らばるガラス片へ目を向けた瞬間、息をのんだ。
そこに走っていた無数のひび割れが、ゆっくりと消えていく。
まるで何事もなかったかのように。
(消えて……る。)
リリアーナだけが、その光景を見つめていた。
胸の奥に残る不安は、まだ消えない。
(終わったわけじゃ……ない。)
そう告げるように、冷たい予感だけが静かに胸を締めつけていた。




