第九十話 砕けた静寂
静まり返る会場。
誰も言葉を発せない。
リリアーナは砕けたグラスを見つめながら、小さく震える声で呟いた。
「……抗えた……の?」
ぽたり、と。
右手から流れた血が、大理石の床へ落ちる。
その赤い雫だけが、静寂の中に小さな音を残した。
「リリアーナ!」
我に返ったエリアスが駆け寄り、震える右手をそっと包み込む。
砕けたガラス片が手のひらへ食い込み、白い手袋は鮮やかな赤に染まっていた。
「こんなに……。」
苦しそうに眉を寄せるエリアス。
リリアーナはゆっくりと顔を上げた。
その瞳は涙で滲み、焦点が定まっていない。
「エリアス……様。」
声は震え、今にも消えてしまいそうだった。
「私は……。」
そこまで言って、唇が止まる。
言えない。
"ゲームに操られました"
そんなことを口にしたところで、誰が信じるというのだろう。
「大丈夫だ。」
エリアスは優しく言った。
「今は何も話さなくていい。」
その言葉に、張りつめていた糸が少しだけ緩む。
一方、オリヴィアも青ざめた表情で駆け寄ってきた。
「リリアーナ様……!」
その声には責める色など一切なかった。
ただ、目の前で怪我をした令嬢を心配する気持ちだけがあった。
「お、お怪我を……。」
オリヴィアは自分のハンカチを取り出そうとする。
その姿を見た瞬間、リリアーナの胸が締め付けられた。
(やっぱり……。)
(この子は、何も悪くない。)
もし、あのグラスが砕けていなければ。
もし、本当にワインを浴びせていたら。
そう思うだけで、身体が震える。
会場のあちこちから、小さなざわめきが広がり始めた。
「何が起きたんだ……?」
「グラスが突然……。」
「リリアーナ様がお怪我を……?」
誰一人として、"オリヴィアにワインをかけようとした"とは口にしない。
目の前で起きた出来事は、それほど不可解だった。
その時だった。
リリアーナの視線が、床へ落ちたガラス片へ吸い寄せられる。
砕け散った破片の一つ一つに、細かなひび割れが浮かんでいた。
まるで、その役目を終えたかのように。
リリアーナは小さく息をのむ。
(終わった……?)
それとも――
(まだ、終わっていない……?)
胸の奥に残る、不吉な予感だけは消えなかった。




