第八十九話 抗う心
ワイングラスが、ゆっくりと持ち上がる。
「……っ。」
リリアーナの指先は小刻みに震えていた。
(違う。)
(私は、こんなことしたくない。)
腕を止めようと力を込める。
けれど、身体は命令を聞かない。
まるで見えない糸に操られているかのように、腕はゆっくりと持ち上がっていく。
「リリアーナ、どうしたんだ?」
異変に気付いたエリアスが、一歩踏み出した。
その声は届いている。
届いているのに、振り向くことすらできない。
【アビセロ】
冷たい声が頭の奥に響く。
リリアーナは強く目を閉じた。
(嫌……。)
(お願い……。)
(止まって……。)
目の前にはオリヴィア。
何も知らず、優しく微笑んでいる。
「リリアーナ様。先ほどは——」
その言葉を最後まで聞くこともできない。
腕が、さらに高く上がる。
「違う!」
思わず叫んだ。
会場の空気が、一瞬止まる。
周囲の貴族たちが何事かと視線を向ける。
「私は……!」
涙が頬を伝う。
「私は、あなたを傷つけたくない!」
その叫びと同時に、腕を押さえ込もうと左手で右腕を掴む。
必死だった。
身体中の力を振り絞る。
それでも右腕は少しずつ動いていく。
「やめろ……!」
自分自身へ叫ぶ。
エリアスが駆け出した。
「リリアーナ!」
あと一歩。
届く。
そう思った、その時——
【アビセロ】
声が鋭く響いたが
一瞬だけリリアーナの身体から、一気に力が抜けた。
その勢い余って右手が前へ振られる。
赤いワインの液体が、宙へ舞う——。
それと同時に
パリンッ——!!
乾いた破裂音が、会場中へ響き渡った。
リリアーナの手の中で、ワイングラスが粉々に砕け散った。
「きゃっ!」
周囲から悲鳴が上がる。
赤いワインは床へ飛び散り、ガラスの破片が煌めきながら降り注ぐ。
リリアーナはその場に立ち尽くした。
荒い呼吸。
震える身体。
右手からは、細かな傷とともに血が流れている。
しかし——
オリヴィアには、一滴もワインはかかっていなかった。
静まり返る会場。
誰も言葉を発せない。
リリアーナは砕けたグラスを見つめながら、小さく震える声で呟いた。
「……抗えた……の?」
その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。




