第八十八話 操られる身体
「どうした?」
エリアスの優しい声が耳に届く。
その声に応えようと口を開く。
「……はい。」
けれど、自分でも驚くほど声がかすれていた。
胸の鼓動が速い。
呼吸も浅くなっている。
視線の先には、談笑するオリヴィアの姿。
楽しそうに笑うその横顔は、ゲームで見たものと何一つ変わらない。
(違う。)
(近付いちゃ駄目。)
(私はあのリリアーナじゃない。)
何度も心の中で繰り返す。
その瞬間――
【チカヅケ】
頭の奥へ、冷たい声が突き刺さった。
「……っ。」
思わず耳を押さえる。
しかし声は止まらない。
【チカヅケ】
【チカヅケ】
まるで逃げ場を塞ぐように、何度も何度も響き続ける。
「リリアーナ!」
エリアスが慌てて肩へ手を置いた。
「顔色が真っ青だ。」
「だ、大丈夫……です。」
そう言ったはずなのに。
右足が、ゆっくりと前へ出る。
「え……?」
止めようとする。
力を込める。
それでも足は止まらない。
もう一歩。
また一歩。
「違う……。」
小さく呟く。
これは自分の意思じゃない。
身体だけが勝手に歩いていく。
「リリアーナ!」
エリアスが腕を掴もうと手を伸ばす。
その瞬間だった。
リリアーナの腕が、するりとその手を離れていく。
まるで誰かに引かれているかのように。
「どうして……。」
涙が滲む。
(止まって。)
(お願い……止まって。)
心は必死に叫んでいる。
なのに身体は従わない。
目の前にはオリヴィア。
こちらに気付き、柔らかく微笑んでいる。
「リリアーナ様。」
その笑顔に、悪意はない。
ただ純粋に、声を掛けようとしているだけ。
(違う……。)
(この子は何も悪くない。)
(傷付けたくない。)
それでも足は止まらない。
その時、一人の給仕が二人の間へ歩み寄ってきた。
銀のトレーには、赤いワインが注がれたグラスが静かに並んでいる。
リリアーナの視界に、その一つが映る。
細く走る、ひび割れ。
今度は先ほどよりも深く、大きく広がっていた。
【モテ】
「……っ!」
右手が震える。
必死に握り締める。
動くな。
お願いだから、動かないで。
そう願うのに――
指先はゆっくりと開き、
意思とは無関係に、
一つのワイングラスへ伸びていく。
「やめて……。」
誰に向けた言葉かも分からない。
震える指先が、グラスの脚へ触れた。
そして――
静かに、それを持ち上げた。




