第八十六話 静かな異変
会場には穏やかな笑い声が響いている。
令嬢たちは楽しそうに言葉を交わし、令息たちは緊張した面持ちで挨拶を重ねていた。
優雅な旋律が夜会を彩り、誰もがこの特別な夜を楽しんでいる。
その時だった。
一人の給仕が、銀のトレーを手にリリアーナたちの前へ歩み寄る。
透明なワイングラスが美しく並び、赤い液体が灯りを受けて揺れていた。
何気なく視線を向けた、その瞬間。
「……え。」
リリアーナの呼吸が止まる。
一つのグラス。
その側面に、細いひび割れが走っていた。
まるで蜘蛛の巣のように広がる、小さな亀裂。
(また……。)
胸が締め付けられる。
鏡。
ガラス細工。
今まで何度も見てきた、あのひび割れ。
けれど、これまでは違った。
見えていても、触れればただのガラスだった。
何も起こらない。
だから、自分にしか見えない幻なのだと、そう思い込もうとしていた。
「どうかした?」
エリアスの声が耳に届く。
「い、いえ……。」
小さく首を振る。
それでも視線は、ひび割れから離せなかった。
(本当に……あるの?)
確かめたい。
そう思った時には、指先がゆっくりと伸びていた。
恐る恐る、ひび割れへ触れる。
その瞬間
「っ……!」
鋭い痛みが指先を走った。
思わず手を引く。
人差し指から、赤い血が一筋流れ落ちた。
「え……。」
信じられなかった。
今までとは違う。
今までは、何も起こらなかったのに。
「リリアーナ!」
エリアスがすぐにその異変へ気付き、慌てて手を取る。
「どうした!? どこで切ったんだ!」
「わ、私は……。」
震える声しか出ない。
視線は再びワイングラスへ向く。
そこには今も、確かにひび割れが走っている。
けれど給仕は何事もないようにトレーを支え、周囲の貴族たちも誰一人として気付いていない。
(やっぱり……。)
(見えているのは、私だけ。)
その事実が、背筋を冷たく這い上がる。
エリアスはハンカチを取り出すと、優しくリリアーナの指先へ当てた。
「少しじっとして。」
その温かな手に触れながらも、リリアーナの震えは止まらない。
(どうして……。)
(今まで、触れても何も起こらなかったのに……。)
(どうして、急に……。)
その答えを知る者は、誰もいない。
――ただ一つ。
耳の奥で、あの声だけが静かに響いた。
【デテイケ】
リリアーナの瞳が、大きく揺れた。




