第五十六話 広がる噂【後編】
セドリックのお話 後編
翌日。
昨日の出来事は、学園中に広まるような騒ぎにはならなかった。
噂をしていた生徒たちも、それ以上話題にすることはなく、廊下にはいつも通りの穏やかな空気が流れている。
私も普段と変わらない一日を過ごしていた。
昼休み、生徒会室へ書類を届けるよう先生から頼まれた。
「失礼いたします。」
扉をノックすると、中から落ち着いた声が返ってくる。
「どうぞ。」
扉を開けると、机に向かって書類へ目を通しているセドリックがいた。
「先生から書類をお預かりしました。」
「ありがとうございます。」
机へ置くと、私は一礼する。
「では、失礼――」
「リリアーナ様。」
呼び止められ、私は足を止めた。
セドリッは少し言葉を選ぶように視線を落とし、それから静かに口を開く。
「昨日のことですが。」
やはり、その話だった。
「ご迷惑をお掛けしました。」
「え?」
思わず聞き返してしまう。
「私のことで、あなたまで心ない言葉を浴びせられました。」
「あれは……。」
昨日の言葉が頭をよぎる。
『悪役令嬢のくせに。』
胸は少しだけ痛んだ。
けれど。
私は小さく首を横に振る。
「気にしておりません。」
「ですが……。」
「本当に。」
そう言って微笑む。
「私は、事実ではないことが広まる方が気になりました。」
セドリックは驚いたように私を見つめていた。
しばらくの沈黙。
やがて彼は静かに尋ねる。
「……なぜ、あそこまでしてくださったのですか。」
「なぜ、とは?」
「私は、自分で弁解するつもりはありませんでした。」
「誤解はいずれ解けるものだと思っておりますので。」
その言葉に、私は少し考える。
確かに、それも一つの考え方だ。
けれど。
「私は。」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「誤解は、放っておけば真実になることもあると思っています。」
セドリックは静かに耳を傾ける。
「誰かが『違います』と言わなければ。」
「その噂だけが残ってしまいます。」
リリアーナは小さく笑った。
「それが嫌だっただけです。」
「セドリック様だから、ではありません。」
「もし相手が別の方でも、同じことをしていたと思います。」
部屋が静まり返る。
セドリックは少し俯き、小さく息をついた。
そして。
「……あなたらしいお答えですね。」
顔を上げたその表情は、どこか柔らかかった。
「私は今まで。」
ぽつりと呟く。
「家名や立場で評価されることには慣れているつもりでした。」
「良くも悪くも、それが当たり前だと。」
リリアーナは黙って聞く。
「ですが、昨日のあなたは違いました。」
彼は穏やかに微笑んだ。
「私ではなく、事実を信じてくださった。」
「……嬉しかったです。」
思いがけない言葉に、私は少しだけ目を丸くする。
「当然のことをしただけです。」
そう答えると、セドリックは小さく笑った。
「その『当然』が、私にはとても嬉しかったのです。」
リリアーナは少し照れくさくなり、視線を逸らす。
「……そうでしたか。」
「はい。」
短い返事だった。
けれど、その一言には、これまでよりもずっと近い距離感が感じられた。
「これからも、どうぞよろしくお願いいたします。」
セドリックが静かに頭を下げる。
リリアーナも自然と微笑み返した。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。」
生徒会室を後にしながら、リリアーナは小さく息を吐く。
信頼とは、きっと。
大きな約束を交わすことではない。
相手を正しく見ようとする、その積み重ねなのだと。
そう思った。




