第二話 最初の記憶
朝日がゆっくりと部屋を照らしていく。
目を開けると、見慣れた天井がそこにあった。
「……夢。」
思わず呟いた声は、自分でも驚くほどかすれていた。
夢。
そう思いたかった。
けれど。
私はゆっくりと窓へ目を向ける。
昨夜、ひびが入ったはずの窓ガラス。
そこには何事もなかったかのように、朝日を受けてきらきらと輝くガラスがあるだけだった。
「……ない。」
私はベッドから降りると、そっと窓に触れる。
冷たい。
ひびなんて、どこにもない。
「本当に夢……?」
その時だった。
コンコン。
控えめなノックが部屋に響く。
「お嬢様、お目覚めでしょうか?」
クララの声だ。
「……入って。」
扉が開く。
「おはようございます、お嬢様!」
昨日と変わらない笑顔。
その笑顔を見た瞬間、胸につかえていたものが少しだけ軽くなった。
「おはよう、クララ。」
「お加減はいかがですか?」
「もう大丈夫……だと思う。」
そう答えると、クララはほっと胸をなで下ろした。
「皆様、とても心配されていました。」
私は小さく頷く。
昨日、私は家族を泣かせてしまった。
もう心配はかけたくない。
「お父様たちは?」
「朝食をご一緒したいと、お待ちですよ。」
「すぐに支度をするわ。」
鏡台の前へ座る。
その瞬間、胸がざわついた。
昨日。
すべてはこの鏡の前から始まった。
「お嬢様?」
クララの優しい声に、私ははっと我に返る。
「どうかなさいましたか?」
「……ううん。」
私は小さく首を振った。
「ごめんなさい。」
「謝ることなんてありませんよ。」
クララはにっこりと微笑み、櫛を手に取る。
「髪を梳かしますね。」
その一言に、身体がぴくりと震えた。
昨日も。
昨日も、この鏡の前だった。
「……お嬢様?」
「大丈夫。」
そう答えながら鏡を見る。
鏡の中の私は、静かに前を向いていた。
笑わない。
ひびも入らない。
それなのに、鏡から目を離すことができなかった。
「今日は、とてもいいお天気ですね。」
「昨日はお庭へ出られませんでしたから、お散歩でもいかがですか?」
「……考えておくわ。」
少しだけ笑うと、クララも安心したように笑った。
「旦那様も奥様も、お嬢様が笑ってくださるだけで安心されます。」
その言葉に胸が痛む。
私は笑顔を作りながら、心の中でそっと呟いた。
――ごめんなさい。
と。
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食堂へ入ると、お父様、お母様、お兄様が一斉にこちらを見た。
「おはよう、リリアーナ。」
「おはよう。よく眠れた?」
お母様は立ち上がり、私の額へそっと手を当てる。
「熱はなさそうね。」
「もう大丈夫です、お母様。」
「それなら良かった。」
その笑顔に、胸が少しだけ温かくなった。
「リリー。」
お兄様が椅子を引いてくれる。
「ありがとう、お兄様。」
「無理はするな。」
「うん。」
朝食が始まる。
湯気の立つスープ。
焼きたてのパン。
いつもと変わらない朝。
その当たり前が、今日はとても愛おしかった。
「リリアーナ。」
お父様が穏やかな声で言う。
「今日は一日ゆっくり休みなさい。」
「王宮へは私から連絡を入れておく。」
「……申し訳ございません。」
「謝る必要はない。」
お父様は優しく微笑んだ。
「お前が元気でいてくれることが、何より大切なんだ。」
私は静かに頷いた。
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朝食を終えると、お兄様が声を掛けてくれた。
「リリー。」
「庭を散歩しないか?」
「お兄様と?」
「ああ。」
「部屋に閉じこもっていると、余計なことを考えてしまうだろう?」
見透かされている。
私は少しだけ笑った。
「……そうですね。」
庭へ出ると、爽やかな風が頬を撫でた。
色とりどりの花が咲き誇る庭園。
昨日までと変わらない景色。
変わってしまったのは、私だけだった。
「今年も綺麗に咲きましたね。」
お兄様が足を止める。
その先には、一面に咲く白いユリ。
「ユリ……。」
思わず、その名前が口をついて出た。
初めて見るはずなのに。
どうしてこんなに懐かしいのだろう。
風に乗って、一枚の花びらが舞い上がる。
その瞬間――
――パリン。
「っ……!」
頭の奥に鋭い痛みが走った。
白い天井。
消毒液の匂い。
規則正しく鳴り響く電子音。
誰かが泣いている。
『……ありがとうございました。』
『心肺停止を確認しました。』
「……え。」
違う。
これは私じゃない。
でも。
ベッドに横たわる女性の顔は――私だった。
「うそ……。」
息が苦しい。
私は。
私……。
「あの時……。」
言葉が震える。
「私……。」
涙が頬を伝う。
「死んじゃったんだ……。」
「リリー!」
お兄様が慌てて私の肩を支える。
「どうした!」
私はお兄様を見上げた。
温かい。
生きている。
私は今、生きている。
でも。
前の私は、もういない。
「お兄様……。」
私は震える手で、お兄様の袖をそっと掴んだ。
「少しだけ……。」
「そばにいてください……。」
お兄様は何も聞かなかった。
ただ、私の手を優しく握り返してくれた。
私は、その温もりをもう二度と失いたくないと思った。




