第一話 ひび割れた鏡
柔らかな朝日が、薄いレースのカーテンを透かして部屋を優しく照らしていた。
窓の外では、小鳥たちが楽しげにさえずっている。
静かな朝。
規則正しいノックの音が部屋に響いた。
「お嬢様。朝でございます。」
扉の向こうから聞こえてきたのは、明るく弾んだ声だった。
「……ん。」
小さな返事のあと、ベッドの上の少女はゆっくりと目を開ける。
「おはようございます、お嬢様!」
勢いよくカーテンが開かれ、朝の光が部屋いっぱいに広がった。
「おはよう、クララ。」
少女――リリアーナ・フォン・アルディスは、眠そうに目をこすりながら微笑む。
その笑顔を見たクララは、胸の前で両手を合わせた。
「今日も可愛いです!」
「ふふっ。朝から大げさね。」
「大げさではありません! 本当のことです!」
クララは胸を張って言い切る。
リリアーナは小さく笑いながらベッドを降りた。
まだ五歳とは思えないほど所作は美しく、一つひとつの動きに自然と気品が漂う。
「本日は王宮へ伺う日です!」
「ええ、そうだったわね。」
「王宮の皆様も楽しみにされていると思います!」
「私もお会いするのが楽しみよ。」
今日初めてお会いする王太子殿下。
少しだけ緊張するけれど、それ以上に楽しみだった。
「では、すぐにお支度をいたしましょう!」
「お願いするわ。」
鏡台の前へ座ると、クララは慣れた手つきでリリアーナの長い髪を優しく梳かし始めた。
黒に近いダークプラムの髪は、朝日を受けるとほのかに紫色を帯び、美しく艶めく。
「本当に綺麗なお髪……。」
クララは思わず見とれながら、小さく呟いた。
「ありがとう。」
リリアーナは鏡へ目を向けた。
鏡の中には、整った顔立ちの幼い令嬢が映っている。
アメジストのような紫の瞳。
まだ幼さを残しながらも、どこか凛とした表情。
その姿を見つめていた――その時だった。
鏡の中のリリアーナが、ゆっくりと微笑んだ。
私は、笑っていない。
「……え?」
息をのむ。
次の瞬間。
鏡に一本の細いひびが走った。
――パリン。
澄んだ音が部屋に響く。
思わず立ち上がる。
「……クララ。」
「はい、お嬢様?」
「今……聞こえた?」
「え?」
クララは不思議そうに鏡を見る。
「何も……。」
そう言いかけたクララの言葉が止まった。
鏡の表面に、細いひびが走っている。
「きゃっ!」
「か、鏡が……!」
その瞬間だった。
頭の奥を鋭い痛みが貫いた。
「っ……!」
景色が歪む。
知らない部屋。
見たこともない建物。
夜の街。
走る鉄の箱。
空を照らす無数の光。
聞いたことのない音楽。
笑い合う人々。
そして――
一人の女性。
仕事を終え、夜遅く帰宅する。
温かいお茶を淹れ、小さく息をつく。
ゲーム機の電源を入れる。
深い紫色の画面。
白い百合の花びらが舞い落ちる。
最後の一枚が透明なガラスへ変わる。
――パリン。
砕け散ったガラスの欠片が光となり、一つのタイトルを描いた。
『運命の欠片
~Fragments of Destiny~』
「……っ!」
知っている。
何度も遊んだ。
大好きだった乙女ゲーム。
「お嬢様!」
クララの声が遠くなる。
頭の中へ流れ込む記憶。
王立学園。
卒業パーティー。
断罪。
そして――死。
ガラスの欠片に貫かれ、命を落とす悪役令嬢。
その名前は。
「……リリアーナ・フォン・アルディス。」
「……いや。」
何が起きているのか分からない。
分からないのに、分かってしまう。
私はリリアーナ。
アルディス公爵家の長女。
お父様も、お母様も、お兄様も、みんな私を愛してくれている。
そんな幸せな毎日が。
十八歳で終わるなんて。
信じたくなかった。
「違う……。」
でも、記憶は容赦なく押し寄せる。
十五歳。
エルディア王立学園。
十八歳。
卒業パーティー。
断罪。
そして――死。
「いやぁっ!!」
気づけば床にしゃがみ込み、耳を塞いでいた。
見たくない。
思い出したくない。
知りたくない。
「お嬢様!」
クララが駆け寄り、震える私を抱きしめる。
「大丈夫です! 大丈夫ですから!」
その温もりに触れた瞬間、涙があふれた。
「……死にたく、ない。」
その一言が部屋に落ちた。
廊下から慌ただしい足音が近づいてくる。
「リリー!」
勢いよく扉が開いた。
「お兄様ぁ……。」
私は泣きながらお兄様の胸へ飛び込んだ。
「大丈夫だ。」
お兄様は私を強く抱きしめる。
「もう大丈夫。」
震えているのは私だけではなかった。
お兄様の声も、少しだけ震えていた。
「クララ、何があった。」
「私にも分かりません……突然、お嬢様が……。」
「リリアーナ!」
続いてお母様とお父様が部屋へ駆け込んでくる。
お母様は私の前に膝をつき、そっと頬を包んだ。
「怖かったの?」
私は涙を流したまま、小さく頷く。
「もう大丈夫。」
そのまま静かに抱きしめられる。
温かい。
安心する。
それなのに胸は苦しいままだった。
医師が呼ばれ、診察を受けた。
身体に異常はないという。
みんなはほっとしたように笑った。
でも私は笑えなかった。
身体ではない。
壊れたのは、私の未来だった。
その夜。
眠れないまま窓の外を見つめていた。
月明かりが部屋を淡く照らしている。
――パリン。
小さな音がした。
ゆっくりと窓へ目を向ける。
誰も触れていないはずの窓ガラス。
その隅に、細い一本のひびが静かに走っていた。
「……また。」
私は息をのんだ。
鏡だけじゃない。
この世界は、一体何が起きているの――。




