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第143話 私の秘密



夕暮れの廊下は静まり返っていた。


窓から差し込む橙色の光が、二人の影を長く伸ばしている。


リリアーナは震える唇をゆっくりと開いた。


「……信じて、くださいますか。」


小さな声だった。


けれど、その一言には何年も胸の奥へ閉じ込め続けてきた想いが込められていた。


エリアスはその瞳を真っ直ぐ見つめる。


迷いはない。


静かに微笑み、優しく頷いた。


「君が話してくれることを、疑う理由がない。」


その言葉を聞いた瞬間。


張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。


リリアーナの瞳から涙が溢れる。


止めようとしても止まらない。


何度も唇を噛み締め、ようやく小さく息を吸った。





「私には……前世の記憶があります。」





静かな廊下に、その声だけが響く。


「前世では、ごく普通の女性でした。」





「家族がいて、友人がいて……何不自由なく暮らしていました。」









「ですが、ある日事故に遭い……命を落としました。」







エリアスは何も言わない。


ただ、静かに耳を傾けている。









「でも気付いたらアルディス公爵家の娘、リリアーナとして生きていたのです。」






涙をぬぐいながら続ける。


「最初は夢だと思いました。」






「けれど成長するにつれて、前世の記憶は消えることなく残っていました。」






一度目を閉じる。


あの日の恐怖を思い出すように。









「そして五歳になった頃……私は気付いたのです。」


ゆっくりと顔を上げる。







「この世界は、前世で遊んでいたゲームの世界だということに。」







その言葉に、エリアスの瞳がわずかに揺れた。


だが、驚きの声を上げることも、否定することもない。







リリアーナは続けた。


「そのゲームには主人公がいました。」








「オリヴィア様です。」







「そして……。」


喉が締め付けられる。


一番言いたくなかった言葉。









「私は、そのヒロインをいじめる悪役令嬢でした。」





静寂が流れる。


「オリヴィア様をいじめ続け、最後には卒業式で罪を裁かれます。」







「婚約は破棄され、すべてを失い……。」








「国外追放になる。」


声が震える。







「それが、本来の物語でした。」


エリアスは静かにリリアーナを見つめている。


「だから私は……未来を変えようと決めました。」







「誰も傷付かない未来を。」






「誰も涙を流さない未来を。」










「そう願って、生きてきたのです。」


涙が頬を伝う。


「でも。」


その一言が重く響く。





「未来を変えるたびに、ガラスにひびが入りました。」


「最初は鏡でした。」


「次はガラス細工。」


「温室の窓。」


「少しずつ増えていったのです。」


リリアーナは傷ついた指先を見つめる。


ハンカチにはまだ赤い血が滲んでいた。


「やがて、私にだけ聞こえる声が聞こえるようになりました。」


【アクヤクレイジョウ】


「そう命令されるようになったのです。」


「悪役令嬢として生きろと。」


肩が震える。


「私は……負けたくありませんでした。」

 





「だから何度も抗いました。」






「そのたびに、ひびは増えていった。」


呼吸が乱れる。






「そして今日……。」


傷ついた指先をそっと握る。


「空間そのものに亀裂が入りました。」









「触れた瞬間、傷を負いました。」








「その時……。」


涙が止まらない。


「初めて言われたのです。」


震える声で呟く。








「【ジャマ】……と。」


その言葉が廊下へ消えていく。







「もう悪役令嬢になれ、ではありませんでした。」








「世界は……私を消そうとしている。」


そう言うと、リリアーナは堪えていたものが溢れるように泣き崩れた。


「怖かった……。」


嗚咽混じりの声。






「ずっと怖かったんです……。」








「皆さんまで巻き込まれてしまうかもしれない。」








「エリアス様も。」


「フィン様も。」


「セドリック様も。」


「ヴィンセント様も。」


「オリヴィア様も。」


「だから誰にも話せませんでした。」


「私一人が我慢すればいいと……そう思っていました。」





涙は止まらない。


何年間も押し殺してきた想いが、次々と溢れ出していく。


長い沈黙が流れた。


夕日だけが、静かに二人を照らしている。


やがて。


エリアスが一歩だけ近づいた。


リリアーナの前へ立ち、優しく微笑む。


「ありがとう。」


その一言に、リリアーナはゆっくり顔を上げた。


「……え?」


「話してくれて、ありがとう。」


涙で滲む瞳が大きく揺れる。


「僕には前世は分からない。」


「ゲームというものも知らない。」


「君が見てきた景色を、すべて理解できるとは言えない。」


少しだけ寂しそうに笑う。


「でも。」


真っ直ぐな青い瞳が、リリアーナだけを見つめる。


「一つだけ、確かなことがある。」







「君はずっと、一人で戦ってきた。」


「誰かを守るために。」


「未来を変えるために。」


「笑いながら、泣きながら。」


「誰にも頼らず。」


「たった一人で。」


その言葉に、リリアーナの瞳からまた涙が溢れる。


エリアスはそっと手を差し伸べた。


「これからは、一人じゃない。」


その手は、まっすぐリリアーナへ向けられている。


「君が背負ってきたものを、僕にも背負わせてほしい。」






「怖いなら、一緒に怖がろう。」


「苦しいなら、一緒に苦しもう。」


「運命が相手だとしても。」


「君だけに戦わせたりはしない。」





リリアーナは震える手で、その手を握った。


温かい。


昨日よりも。


今日よりも。


何よりも、その温もりが心へ染み渡る。


「……あり…がとうござ…います。」


嗚咽をこらえながら、小さく笑う。


その笑顔は、何年ぶりか分からないほど、心からの笑顔だった。







その時――。


ピシッ。


誰にも聞こえない、小さな音が響く。


校舎の遥か向こう。


夕暮れの空間に、新たな亀裂が静かに広がり始めていた。

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