第142話 君を信じる
夕暮れの廊下は静まり返っていた。
赤く染まる窓から差し込む光が、長く影を落としている。
リリアーナはその場から動くことができなかった。
指先から流れた血は、ハンカチを赤く染めている。
震えが止まらない。
耳の奥では、あの冷たい声が何度も繰り返されていた。
【ジャマ】
そのたった一言が、胸を締めつける。
「どうして……。」
小さく呟いても、答えは返ってこない。
世界は何事もなかったかのように静かだった。
けれど、自分だけが違う。
世界に拒絶されたような恐怖が、身体の奥から込み上げてくる。
「リリアーナ!」
その声に、はっと顔を上げた。
廊下の向こうから、エリアスが駆けてくる。
息を切らしながら、真っ直ぐにこちらへ向かってくる姿が見えた。
「大丈夫!?」
リリアーナは慌てて傷ついた手を後ろへ隠す。
「い、いえ……何でもありません。」
「何でもないわけがない。」
エリアスは優しく、けれど迷いなくその手を取った。
隠していた指先から、小さな血が滲んでいる。
青い瞳が静かに揺れた。
「怪我をしているじゃないか。」
「これは……。」
言葉が続かない。
何と説明すればいいのか分からない。
説明できるはずもない。
エリアスは何も聞かず、制服のポケットから白いハンカチを取り出した。
「少し染みるかもしれない。」
その声は、とても穏やかだった。
傷口を優しく包み、丁寧に止血していく。
まるで壊れ物に触れるような手つき。
昨日、自分の手を包んでくれた時と同じ温もりだった。
その優しさに触れた瞬間。
張り詰めていた心が少しだけ緩む。
「ありがとう……ございます。」
かすれた声でそう言うと、エリアスは小さく首を振った。
「お礼を言うのはまだ早いよ。」
静かな沈黙が流れる。
夕日だけが二人を照らしていた。
やがてエリアスは、ハンカチを結び終えると、そっとリリアーナを見つめた。
その瞳には、心配と決意が宿っている。
「リリアーナ。」
「……はい。」
「ずっと気付いていた。」
その言葉に、リリアーナの肩が小さく震えた。
「君が何かを抱えていること。」
「苦しんでいること。」
「怖がっていること。」
「全部は分からない。」
エリアスは静かに続ける。
「だけど、君が笑っていても。大丈夫だと言っていても。本当は無理をしている時があることくらい、僕にも分かる。」
リリアーナは俯いた。
その通りだった。
誰にも気付かれないように。
誰にも心配をかけないように。
そう思って笑ってきた。
けれど、エリアスには見抜かれていた。
「君なら。」
エリアスは優しく微笑む。
「いつか、自分から話してくれると思っていた。」
「だから待とうと思った。君が話したいと思える、その日まで。」
その言葉に、胸が熱くなる。
信じて、待っていてくれた。
無理に聞き出そうとはしなかった。
それだけでも十分に救われる。
けれどエリアスは、小さく息をついた。
「……でも。」
その一言で空気が変わる。
「今日の君を見て、考えが変わった。」
リリアーナはゆっくりと顔を上げる。
「もう待つだけじゃ駄目だと思った。君は、一人で抱え込みすぎている。そのままでは、いつか君が壊れてしまう。」
真っ直ぐな瞳。
逃げ場のないほど優しい眼差しだった。
「だから。」
少しだけ言葉を選ぶように間を置く。
「もう、僕から聞いても構わないかな。」
リリアーナは息をのんだ。
胸の奥で、何かが大きく揺れる。
エリアスは一歩だけ近づく。
「君は……何をそんなに怖がっているんだ?」
責める声ではない。
問い詰める声でもない。
ただ、大切な人を案じる、優しい声。
「君を苦しめているものは何なんだ?」
「僕に教えてくれないかな。」
リリアーナの唇が震える。
話したい。
本当は、ずっと誰かに聞いてほしかった。
一人では苦しかった。
怖かった。
でも――。
(信じてもらえなかったら……。)
(頭がおかしいと思われたら……。)
(エリアス様まで巻き込んでしまったら……。)
言葉が喉で止まる。
次の瞬間、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「リリアーナ……。」
エリアスは何も言わない。
ただ、昨日と同じように、そっとその手を包んだ。
冷え切っていた指先へ、優しい温もりが伝わってくる。
「もう、一人で抱え込まなくていい。」
その一言に、リリアーナは肩を震わせた。
「君がどんな話をしても。僕は君から目を逸らさない。」
エリアスは静かに微笑む。
その笑顔には迷いがなかった。
「だから安心して。僕が、必ず君を守る。」
その言葉は、静かな誓いだった。
リリアーナは涙で滲む視界の中、エリアスを見つめる。
こんなにも真っ直ぐに、自分を信じてくれる人がいる。
胸の奥で固く閉ざしていた扉が、少しだけ音を立てて開き始めた。
震える唇をゆっくりと開く。
「……エリアス様。」
小さな声が、静かな廊下に溶けていく。
「もし……私がお話しすることが、この世界では信じられないようなことだったとしても……。」
涙をぬぐいながら、エリアスを見つめる。
「……信じて、くださいますか。」




