第141話 静かなる亀裂
翌朝。
窓から差し込む陽射しに包まれ、リリアーナはゆっくりと目を覚ました。
昨夜のことを思い返す。
王国課題を終えたこと。
エリアスと二人で歩いた帰り道。
そして――。
『君を一人にはしない。』
その言葉が胸によみがえり、自然と頬が緩む。
そっと右手を見つめる。
手をつないだのは昨日のことなのに、まだ温もりが残っているような気がした。
「お嬢様、おはようございます。」
クララがカーテンを開けながら微笑む。
「今日はとてもご機嫌ですね。」
「えっ?」
「朝から笑顔でいらっしゃいます。」
そう言われて初めて、自分が笑っていたことに気付く。
「そ、そんなことは……。」
少しだけ頬を赤くすると、クララは嬉しそうに笑った。
「何か良いことがあったのでしょうか。」
「……秘密です。」
「まあ。」
クララはくすくすと笑いながら、身支度を手伝い始めた。
その穏やかな時間が、今日はいつも以上に心地よかった。
登校すると、学園はいつも通りの賑わいを見せていた。
昇降口へ向かう途中、エリアスと目が合う。
一瞬だけ見つめ合う。
昨日のことを思い出したのだろう。
二人とも照れたように微笑んだ。
「おはよう。」
「お、おはようございます。」
それだけの挨拶なのに、胸が少しだけ高鳴る。
「ん?」
フィンが二人を見比べた。
「なんか今日、二人とも雰囲気違わない?」
「そうですか?」
リリアーナが慌てる。
「うーん……何だろう。」
「昨日より仲良くなった?」
「フィン。」
セドリックがため息をつく。
「朝から余計な詮索はやめなさい。」
「えー。」
「でも絶対何かあるって!」
そのやり取りに、オリヴィアもヴィンセントも思わず笑みをこぼす。
リリアーナとエリアスは顔を見合わせ、小さく笑った。
穏やかな朝だった。
いつもと変わらない学園。
いつもと変わらない仲間たち。
だからこそ、その異変はあまりにも突然だった。
授業中。
教師の説明を聞いていたその時。
――ピシッ。
微かに何かが割れるような音が聞こえた。
リリアーナは顔を上げる。
窓の向こう。
冬空の一角に、黒く細い線が浮かんでいた。
まるで空そのものに亀裂が入ったように。
「……え?」
息をのむ。
ほんの一瞬。
次の瞬間には、その亀裂は跡形もなく消えていた。
「リリアーナ?」
エリアスが小声で尋ねる。
「どうしたの?」
「……いえ。」
周囲を見回す。
誰も気付いていない。
教師も、生徒も、何事もなかったように授業を続けている。
(今のは……。)
夢ではない。
確かに見えた。
昼休み。
中庭では、生徒たちが思い思いに昼食を楽しんでいた。
六人もいつもの場所へ集まる。
「今日は開放感がすごい!」
フィンが大きく伸びをする。
「昨日まで発表のことばかり考えてたからさ!」
「気持ちは分かります。」
ヴィンセントが微笑む。
「ようやく肩の荷が下りましたね。」
「これで少しは落ち着いて勉強できます。」
セドリックの言葉に、全員が苦笑した。
賑やかな笑い声が響く。
その輪の中にいながらも、リリアーナはどこか落ち着かなかった。
(あの亀裂は……。)
頭から離れない。
「リリアーナ。」
エリアスが優しく声をかける。
「今日は少し元気がないね。」
「えっ?」
「何かあった?」
心配そうな青い瞳。
その優しさに胸が痛む。
「大丈夫です。」
精一杯微笑む。
「少し考え事をしていただけです。」
「そう?」
「はい。」
エリアスは少しだけ気にするような表情を見せたが、それ以上は何も聞かなかった。
放課後。
帰り支度を終えたリリアーナは、一人、静かな廊下を歩いていた。
夕暮れが校舎を赤く染めている。
その時だった。
――ピシッ。
まただ。
今度は昨日よりも、はっきりと。
リリアーナは足を止める。
目の前の空間が、ゆっくりとひび割れていく。
黒く細い亀裂。
その周囲だけ、景色が揺らいで見える。
「そんな……。」
思わず一歩近付く。
さっきまで見た亀裂よりも、大きい。
まるで世界そのものが裂けようとしているようだった。
「リリアーナ!」
遠くからエリアスの声が聞こえた。
その瞬間――。
リリアーナの指先が、亀裂へと触れる。
スッ。
鋭い痛みが走った。
「っ……!」
慌てて手を引く。
白い指先から、一筋の赤い血が流れ落ちた。
「血……。」
小さな傷だった。
けれど確かに切れている。
夢ではない。
幻でもない。
その証拠が、目の前にあった。
そして。
亀裂は何事もなかったように、静かに消えていく。
「今のは……。」
震える声が漏れる。
世界は再び、いつも通りの姿へ戻っていた。
だが、リリアーナの指先だけが現実を物語っている。
その時だった。
頭の奥で、冷たい声が響く。
【ジャマ】
たった一言。
感情も温度もない声。
けれど、その言葉だけで十分だった。
「……っ!」
リリアーナの顔から血の気が引く。
今までとは違う。
もう、『悪役令嬢になれ』ではない。
世界は――
自分を、拒絶し始めている。
冬の夕暮れは静かだった。
その静けさが、これから訪れる異変の始まりを告げているようだった。




