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第135話 残された花



あれから、どうやって屋敷へ帰ってきたのか、ほとんど覚えていない。


気が付けば私は、自室のベッドに腰掛けていた。


窓の外では、雨上がりの雫が軒先からぽたり、ぽたりと落ちている。





クララが何度も私の名前を呼んでいた気がする。


お母様が心配そうに頬へ手を添えてくれたことも。


先生が「大丈夫ですよ」と優しく微笑んでくれたことも。






エリアス様が何かを話していたことも……。


全部、ぼんやりとしていて思い出せない。


ただ一つだけ、はっきり覚えていることがあった。






私はゆっくりと右手を開く。


そこには、一輪の花が握られていた。


雨に打たれた花びらは少し傷み、雫をまとっている。


それでも、その花だけは離したくなかった。


エリアス様が、そっと私の髪へ飾ってくれた花。


 『その花は、君によく似合う。』


あの優しい声が耳の奥で蘇る。


「……っ。」


胸の奥が締め付けられる。


私は花を胸へ抱き寄せ、小さく身体を震わせた。


「怖かった……。」


その一言が零れた瞬間。


堪えていた涙が、ぽろりと頬を伝った。


あんなに怖いと思ったのは初めてだった。


雨の中で、誰の姿も見えなくなって。


どれだけ叫んでも声は届かなくて。


あの声だけが、何度も、何度も私を追い詰めた。





 ――【アクヤクレイジョウ】


「……やめて。」


思わず耳を塞ぐ。


もう部屋には誰もいない。


それなのに、あの声は今も胸の奥へこびり付いて離れなかった。








コンコン。


控えめなノックが部屋に響く。


「お嬢様、失礼いたします。」


扉がゆっくりと開き、クララが銀のトレーを手に入ってきた。


湯気の立つ紅茶と、小さなお菓子が添えられている。


「温かい紅茶をお持ちしました。」


「……ありがとう。」


リリアーナは小さく微笑み、花を机の上へそっと置いた。


クララはカップを置くと、優しくリリアーナの顔を見つめる。


「少し、お顔の色が戻られましたね。」




「心配をかけてしまったわ。」


「そんなこと、お気になさらないでください。」


クララはいつもの穏やかな笑みを浮かべた。


「お嬢様は、いつもお一人で頑張りすぎなのです。」


その言葉に、リリアーナは少しだけ目を伏せる。


「でも、お嬢様。」


クララは真っ直ぐリリアーナを見つめた。


「お嬢様は、お一人ではありません。」


優しく、それでいて力強い声だった。


「たとえ世界中が敵になっても……私は、お嬢様の味方です。」


その言葉に、張りつめていた心がふっとほどけていく。




「……ありがとう、クララ。」


自然と笑みがこぼれた。


「私も、あなたがいてくれて――」


そこまで口にした時だった。








世界中が敵になっても。

 


その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。


「……世界中が?」




リリアーナの笑みが消えた。


 胸がざわつく。


 ガラスのひび。


 未来を変えるたびに起きる異変。



今日、突然自分を悪役令嬢と呼び始めた生徒たち。



そして、あの豪雨。




ひとつひとつの出来事が、頭の中でゆっくりと繋がっていく。


「……まさか。」


リリアーナは息を呑んだ。






「私が未来を変えるたびに……。」


 鼓動が速くなる。


 あれは偶然じゃない。


 全部、繋がっていたんだ。

 


 

「この世界は……。」


震える唇から、小さく言葉が零れる。






「元に戻そうとしている……?」


部屋は静まり返っていた。


クララは不思議そうに首を傾げる。


けれどリリアーナだけは、今、ようやく一つの答えへ辿り着こうとしていた。

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