第125話 あの日の約束【後編】
翌日の午後。
私はクララと一緒に厨房へ向かっていた。
「久しぶりですね、お嬢様。」
「少し緊張するわ。」
そう言うと、クララはくすりと笑う。
「前回もそうおっしゃっていました。」
「あら、そうだったかしら。」
懐かしい記憶に、二人で顔を見合わせて微笑んだ。
厨房では、必要な材料がすでに用意されていた。
小麦粉、バター、卵、砂糖。
どれも見慣れた材料だけれど、今日は少しだけ特別に感じる。
「では始めましょう。」
クララに教わりながら、生地をゆっくりと混ぜていく。
以前は力加減も分からず慌ててしまったけれど、今回は違う。
焦らず、一つひとつ丁寧に。
生地を伸ばし、型で抜いて並べていく。
焼き上がるまでの時間さえ、どこか心地よかった。
甘い香りが厨房いっぱいに広がる。
「とても綺麗に焼き上がりましたね。」
クララの言葉に、私は嬉しそうに頷いた。
「前より少しだけ上手になれたかしら。」
「ええ。きっと殿下もお喜びになります。」
私は焼き上がったクッキーを丁寧に箱へ詰め、淡い紫色のリボンを結んだ。
箱を見つめながら、小さく微笑む。
「今度こそ、お届けできますように。」
数日後。
王国課題の打ち合わせのため、私は王宮を訪れていた。
いつものように資料へ目を通しているエリアス様の姿を見つけ、私は箱を抱えたまま歩み寄る。
「エリアス様。」
顔を上げたエリアス様は、私を見ると優しく微笑まれた。
「リリアーナ。」
「今日は王国課題のお礼と……もう一つ、お渡ししたいものがあります。」
そう言って、小さな箱を差し出す。
「これは?」
「開けていただけますか。」
エリアス様は丁寧にリボンをほどき、箱の蓋を開けた。
並んだクッキーを見つめたまま、少しだけ目を見開く。
「……クッキー。」
私は小さく頷いた。
「あの日、お約束しました。」
「『また、殿下のためにお作りします』と。」
その言葉を聞いた瞬間、エリアス様の表情がふっと柔らかくなる。
「あの日のこと、覚えていてくれたんだね。」
「もちろんです。私にとっても、大切な約束でしたから。」
しばらく静かな時間が流れる。
やがてエリアス様は一枚手に取り、ゆっくりと口へ運んだ。
「……美味しい。」
その一言に、自然と肩の力が抜ける。
「前より、もっと美味しくなってる。」
「本当ですか?」
「うん。」
そう笑うエリアス様は、どこか嬉しそうだった。
「ありがとう、リリアーナ。」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなる。
湖で交わした約束。
ずっと心に残っていた想い。
ようやく、その約束を果たすことができた。
するとエリアス様は、箱を大切そうに閉じて微笑んだ。
「これは全部、一人で食べてもいいのかな?」
「ふふっ。」
思わず笑みがこぼれる。
「もちろんです。」
「では、大事にいただくよ。」
穏やかな午後の陽射しが窓から差し込み、二人を優しく包み込む。
あの日は湖の底へ沈んでしまった小さな幸せ。
けれど今、その続きをこうして笑い合える日が訪れた。
それだけで、胸は満たされていた。




