第124話 あの日の約束【前編】
王国課題が始まってから、気づけば数か月が過ぎていた。
市場や農村を訪れ、人々の話に耳を傾ける日々。
授業や実技の合間には図書室へ足を運び、集めた資料をもとに意見を交わした。
調べれば調べるほど、この国にはまだ私の知らないことがたくさんあるのだと実感する。
そして、その度に私はエリアス様の知識の豊かさに驚かされていた。
「この問題は、一つだけを見ても解決しない。」
「市場と農村、それぞれの立場から考えることが大切なんだ。」
そう言って、私が書き留めた内容を丁寧に整理し、新しい視点を示してくださる。
私は思いついたことを夢中で書き留めることはできても、それを一つの形へまとめるのは得意ではない。
けれど、エリアス様は違った。
一つひとつの出来事を繋ぎ合わせ、どうすればより良い未来へ繋がるのかを、いつも真剣に考えていらっしゃる。
だからこそ、ここまで王国課題を進めてこられたのだと思う。
……いえ。
きっと、私一人ではここまで辿り着けなかった。
(何か、お礼がしたい……。)
そんな気持ちが胸に浮かんだ、その時だった。
ふと、一つの光景が脳裏によみがえる。
春の日差しがきらめく湖。
風にさらわれた蝶々の刺繍入りのハンカチ。
冷たい湖の水。
そして――。
『また、殿下のためにお作りします。』
あの日、私はそう約束した。
湖へ落ちてしまい、濡れて崩れてしまったクッキー。
それでもエリアス様は、大切そうに持っていてくださった。
あのお約束を、私はまだ果たせていない。
「……そうだ。」
自然と笑みがこぼれる。
「クララに相談してみましょう。」
夕暮れの柔らかな陽射しが庭を橙色に染めている。
玄関へ入ると、ちょうどクララが出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。」
「ただいま、クララ。」
挨拶を交わしたあとも、私の表情を見たクララは小さく首を傾げる。
「何か良いことでもございましたか?」
「えっ?」
「とても嬉しそうなお顔をされています。」
そんなに顔に出ていたのかしら。
少し恥ずかしくなりながら笑う。
「実はね、クララに相談したいことがあるの。」
「私でよろしければ、何なりと。」
部屋へ戻ると、私はソファへ腰を下ろした。
クララがお茶を用意してくれる間も、胸はどこか落ち着かない。
温かな紅茶の香りが部屋に広がる。
「それで、ご相談というのは?」
私はティーカップをそっと置き、クララを見つめた。
「王国課題で、エリアス様にはたくさん助けていただいたでしょう?」
「はい。」
「だから、お礼がしたいの。」
クララは優しく微笑む。
「きっと殿下もお喜びになります。」
「でも……何を贈ればいいのか分からなくて。」
高価な贈り物なら、王宮にはもっと素敵なものがたくさんある。
だからこそ、私にしか贈れないものがいい。
そんなことを考えていると、クララがふと口元へ指を添えた。
「それでしたら……。」
「以前、お嬢様がお作りになったクッキーを、もう一度お作りになってはいかがでしょうか。」
その言葉に、私ははっと目を見開く。
「クッキー……。」
湖での出来事。
崩れてしまったクッキーを、それでも大切に持っていてくださったエリアス様。
そして私は、涙を浮かべながら約束した。
『また、殿下のためにお作りします。』
「……そうでした。」
自然と笑みがこぼれる。
「あのお約束を、まだ果たせていませんでした。」
「でしたら、今こそそのお約束を果たす時ではございませんか?」
私は大きく頷いた。
「そうね!」
「あの時よりも、もっと美味しいクッキーを作りたいわ。」
クララも嬉しそうに微笑む。
「では明日、お嬢様とご一緒に厨房へ参りましょう。」
「はい!」
胸の奥が、ふんわりと温かくなる。
今度こそ。
今度こそ、エリアス様へ。
私の想いを込めたクッキーを、お届けしたい。




