第十一話 Crack【前編】
翌朝――。
窓から差し込む陽射しに包まれ、私はゆっくりと目を覚ました。
昨日は、本当に夢のような一日だった。
エリアス殿下がアルディス公爵家へ来てくださり、一緒に庭を歩いて、お茶を飲んで、そして蝶々の刺繍をしたハンカチをお渡しした。
「今日から毎日持ち歩くね!」
嬉しそうに笑ってくださった、その笑顔が何度も思い浮かぶ。
自然と頬が緩んだ。
身支度を終えた私は、自室を見渡す。
春の朝日が窓から差し込み、部屋の中を優しく照らしていた。
その時だった。
ふと、窓辺に飾られたガラス細工へ視線が向く。
昨日までなかったはずの、小さなひび。
「……え?」
私は思わず立ち止まった。
ゆっくりと近づく。
透明なガラスの表面を、細い一本のひびが静かに走っていた。
「どうして……。」
思わず指先を伸ばす。
けれど、触れても割れる様子はない。
ただ、確かにそこにある。
見間違いではない。
私は首をかしげた。
昨日、何かあっただろうか。
そう考えた瞬間、胸の奥で小さな違和感が芽生える。
(昨日……。)
エリアス殿下。
蝶々の刺繍。
ハンカチ。
花冠のお礼。
そこまで思い返したところで、部屋の扉が優しく叩かれた。
「リリアーナ。」
「はい、お母様。」
お母様が部屋へ入って来られる。
「朝食の準備ができたわ。」
「はい。」
私は返事をしながら、もう一度だけガラスを見る。
「……。」
確かに、ひびはある。
「どうしたの?」
お母様が不思議そうに尋ねられる。
私は少し迷ってから答えた。
「このガラス……。」
「ひびが入っているように見えるのですが……。」
お母様はガラスへ目を向けられる。
「ひび?」
少し近寄って眺めたあと、穏やかに微笑まれた。
「とても綺麗よ。」
「どこも割れていないわ。」
私は静かに息をのむ。
(見えていない……。)
もう一度ガラスを見る。
やはり、私にははっきりと見える。
けれど、お母様には何も見えていない。
どうして……。
どうして私だけに見えるのだろう。
胸の奥に、小さな不安が広がっていく。
私は何も言えないまま、お母様の後に続いて部屋を出た。
けれど、その一本のひびは、私の心から離れることはなかった。




