第106話 届かない声
昨夜見た鏡の中の自分。
あの冷たい微笑みは、眠りについても消えることはなかった。
「……。」
小さく息を吐き、鏡台の前へ立つ。
恐る恐る鏡を見つめると、映っているのは見慣れた自分だけだった。
少しだけ疲れた顔。
揺れる紫の瞳。
何も変わらない。
それでも胸の奥に残る違和感だけは消えなかった。
学園では、いつもの穏やかな時間が流れていた。
フィンの明るい笑い声。
セドリックが静かに本を閉じる音。
オリヴィアの優しい笑顔。
そして——。
「おはよう、リリアーナ。」
エリアスの穏やかな声。
「おはようございます、エリアス様。」
自然に笑顔を返す。
その笑顔を見つめながら、エリアスは少しだけ目を細めた。
「何かあった?」
突然の言葉に、リリアーナは思わず立ち止まる。
「……え?」
「君らしくない。」
たったそれだけの一言。
胸の奥で何かが揺れる。
話したい。
鏡のことも。
消えないひびのことも。
全部。
「実は——」
そう口を開いた、その瞬間だった。
【話すな】
低く冷たい声が頭の奥に響く。
息が止まる。
「……リリアーナ?」
「……いえ。」
気付けば笑顔を作っていた。
「少し寝不足なだけです。」
「そうか。」
エリアスは納得したようには見えなかった。
それでも、それ以上は何も聞かなかった。
帰宅後。
自室へ戻ったリリアーナは、机の上に置かれた花瓶へ目を向ける。
消えないひび。
指先を伸ばけた、その時——。
視界がゆっくりと霞んでいく。
前世で何度も見た、美しいタイトル画面。
『Fragments of Destiny』
画面が切り替わる。
オリヴィアが王立学園の廊下を歩いていた。
「……?」
少し先の部屋から声が聞こえる。
開ききっていない扉。
オリヴィアは思わず足を止めた。
「リリアーナ。」
優しい男性の声。
ルシアンだった。
「最近、あまり食事が進んでいないと聞いたんだ。」
返事はない。
少しの沈黙のあと、冷たい声が響く。
「……お兄様。」
部屋の中に立つリリアーナは、表情一つ変えない。
「わたくしのことは放っておいてください。」
「心配だっただけなんだ。」
「その心配が迷惑なのです。」
ルシアンは少しだけ寂しそうに笑った。
「……そうか。」
それ以上何も言わず、静かに部屋を出ていく。
扉が閉まる。
廊下に残されたオリヴィアは、小さく胸を押さえた。
(今の方が……リリアーナ様。)
画面はそのまま暗転した。
「……っ!」
リリアーナは勢いよく顔を上げた。
荒くなる呼吸。
胸が苦しい。
「今のは……。」
ゲームの記憶。
オリヴィアが見ていた景色。
前世では何とも思わず読み進めていた、ほんの数分のイベント。
けれど今は違う。
あの短い場面だけで分かった。
誰も知らないところで、ルシアンは何度も傷ついていたのだ。
「だから……。」
だからゲームのリリアーナは、
誰からも『悪役令嬢』と呼ばれるようになった——。
リリアーナはゆっくりと鏡へ視線を向ける。
鏡の中の自分は、静かにこちらを見つめ返していた。
その瞳の奥に、一瞬だけ冷たい光が宿ったような気がして、リリアーナは思わず息をのんだ。




