第103話 消えないひび
朝日がカーテンの隙間から差し込み、部屋を柔らかな光で包んでいた。
いつもと変わらない穏やかな朝。
けれど、リリアーナは目を覚ますと同時に、ある一点へ視線を向けた。
机の上に飾られたガラスの一輪挿し。
「……。」
昨夜見つけたひびは――。
消えていなかった。
「どうして……。」
ゆっくりとベッドを降り、一輪挿しへ近づく。
細く入った一本のひびは、朝の光を受けて静かに浮かび上がっていた。
これまでなら、朝になれば跡形もなく消えていたはず。
何度も経験してきた。
だからこそ、目の前の光景が信じられない。
「そんな……。」
思わず指を伸ばしかける。
しかし、あと少しというところで手を止めた。
あの日、割れたワイングラス。
手のひらを切った痛みが脳裏によみがえる。
リリアーナは小さく手を引いた。
その時だった。
「お嬢様、お目覚めでございますか。」
部屋の外からクララの声が聞こえる。
「え、ええ。」
返事をすると、クララが部屋へ入ってきた。
「おはようございます。」
「おはよう、クララ。」
いつも通りカーテンを開け、身支度の準備を始めるクララ。
リリアーナは意を決して尋ねた。
「クララ、この一輪挿し……何か変わったところはない?」
「一輪挿し、ですか?」
クララは机へ近づき、しばらく眺める。
「いいえ。とても綺麗でございます。」
「……そう。」
やはり見えていない。
見えているのは、自分だけなのだ。
胸の奥がざわつく。
昼休み。
中庭で昼食を囲んでいても、リリアーナの表情はどこか曇っていた。
「リリアーナ。」
優しい声に顔を上げる。
そこにはエリアスが立っていた。
「今日は元気がないように見える。」
「そんなことは……。」
笑顔を作る。
けれど、自分でもぎこちないことが分かった。
エリアスは少しだけ眉を下げる。
「無理をしなくていい。」
「……ありがとうございます。」
本当のことを話そうか。
そう思った。
けれど、"ひびが見える"などと言って信じてもらえるだろうか。
証明することもできない。
結局、リリアーナは何も言えなかった。
その日の夜。
帰宅すると、真っ先に自室へ向かう。
机の上の一輪挿し。
ひびは、まだ残っていた。
「やっぱり……。」
小さく息をつく。
その瞬間――。
ピシッ。
静かな部屋に、小さな音が響く。
「……!」
振り返ると、本棚の上に飾られたガラス細工に、新たなひびが一本走っていた。
一つでは終わらない。
リリアーナは言葉を失ったまま、その場に立ち尽くす。
胸の鼓動だけが、静かな部屋に大きく響いていた。




