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第十五話 猿の顔

 精巧な猿の顔からは何も感じない。何も感じないことが逆に不気味だった。リリーが寄ってきてギュッとジャンの手を握る。何も感じないジャンに対してリリーは不安そうだった。


 ジャンは優しくリリーに言葉を掛ける。

「怖いのかい、リリー。少し休むかい?」


「今日のお猿さん、お腹を空かせているの。長くいてはいけないの」


 大きく口を開けた猿なので、空腹と表現できる。だが、リリーは「今日の」と表現している。理由はわからないが、日によって迷宮に変化が出るのなら注意だ。


 ジャンが狂信の迷宮に入ろうとすると、リリーが猿の額を注視していた。

「何が見えるのか? 見えるのなら教えてくれ」


「光に怯えろ、影に恐怖せよ、虚言に満ちし者、汝の名は女なり」


 言葉遣いからいってリリーが適当に話しているわけではない。やはり、ここにも同じく見えないメッセージが書いてある。ジャンはうんざりした。


「見えないってのは、止めてほしいな。正しいかどうか俺にはわからん」


 何の気なしに口から出た言葉だった。横を見ればリリーが悲しそうな瞳を向けている。

「リリーは嘘吐きじゃないよ。リリーは良い子だよ」


 嘘吐きは自分のことを嘘吐きとは言わないだろうな、と思うが口に出さない。


 代わりに優しい嘘をジャンは吐く。

「リリーは良い子だ。俺も良いお父さんだ」


 リリーは顔をパット輝かせる。

「やっぱり、お父さんは、お父さんなんだ」


 こうしてみると、リリーはやはり年相応な子供に見えて、微笑ましい。


 リリーがアンクを握るとリリーの頭上に光る大玉スイカくらいの球が現れた。球は白い光を放っていた。リリーが歩けば光は一緒に移動する。リリーが一緒にいれば暗闇で苦労する心配はない。


 猿の口から地下に入ると、すぐに大きな部屋に出る。


 部屋には上に続く階段と下に続く階段があった。目の前の光景にジャンは不審に思った。

「下に続くのはわかる。だが、迷宮に上の階があるとは聞いていない」


「上は迷宮じゃないよ。上にはカラスさんの塾があるの」


 塾の言葉に違和感を持った。大陸にも金持ちの子弟に学問やマナーを教える塾があった。悪党島でも知識を教えて金を取る塾があってもおかしくはない。


 立地がおかしい。ここは通うのも不便であり、パン一個を買うにしても苦労する。トイレに行ったり、水を汲んだりするのだって一仕事だ。ジャンが思考してさらに異常に気が付いた。


 立っている場所は山に空いた自然な洞窟の中ではない。なのに、空気は冷えており、湿気もない。蟲もほとんどいない。おそらく、蝙蝠などもいない。明らかに不自然だ。


 上には移動せず、下から上に行く階段を観察する。階段は所々、欠けており補修された痕がある。段は均等になっており、濡れておらず、湿ってもいない。角度を変えて見れば奥にぼんやり光も見えるが、油が焼ける臭いはしない。


 迷宮を単純に掘削して上に拡張したらこうはいかない。上階にある塾は高度な技術をもって作られている。塾も迷宮の一部と考えたほうがしっくりくる。


「塾になる前には、ここに何かがあったんだ」


 きょとんとした顔でリリーは答える。

「塾は昔から塾だよ。先生も昔からカラスさんだよ」


 リリーがいう昔は精々、生まれてからだ。リリーがこの島で生まれて育ったとしたら、既に十年前には塾があった。島の歴史を知るものなら、塾ができた経緯を知っているかもしれないが、悪人島で十年以上生きている人間が何人もいない。


 素朴な顔でリリーはジャンに質問した。

「お父さんは勉強が好きなの? 学者さんとかになりたいの?」


 素朴なリリーの言葉にジャンは笑った。

「勉強は嫌いだな。体を動かしているほうが好きだ。先に進もう」


 魔法を教える学校や塾は大陸では華やかな大都会にある。授業料も一般人には払えないほど高い。大都会から都会と田舎に行けば授業料は安くなる傾向がある。悪党島は僻地の孤島であり、最悪の立地だ。だからといって、塾の授業料が安いとは限らない。


 地下に下りた。壁にはぼんやりと光っている箇所が所々ある。人間の目には暗い。ジャンにはリリーが作ってくれた光があるのでまだいい。なければ奇襲や罠に気を付けて進まねばならず、神経が磨り減る。


 数歩、進んで気が付いた。足音が響かない。床の材質はただの石ではない。ジャンは屈んで調べた。見ると石にしか見えないが触るとわずかな弾力がある。狂信の迷宮の床は音を吸収する。音は全て吸収されるわけではない。だが、石造りの廊下を歩くより音がしない。


「人間の靴音なら聞こえるが、足の裏に毛があるような獣ならほぼ足音が出ないな」

「大丈夫、獣は近づいてくると匂いがするよ。あと、ふうふうってなるから」


 ふうふう、が何を意味するかわからない。戦場の闇で感じる敵の息遣いのようなものだろうとジャンは結論付けた。


 戦場で気が張ると、平時では聞こえない音や風を感じる。場数を踏んだのでジャンにはリリーの言葉はわかる。とするなら、リリーは既にジャンの達した境地にいる。


 真っすぐ五分ほど通路を進んだ。


「ほら、来たよ」とリリーが教えてくれた。進行方向の先には何も見えない。意識して注意すればわかるが、獣が数匹潜んでいる。正確な数はわからない。


 ジャンに気付かれたのを獣は理解した。獣が駆けてきた。リリーが放つ光のおかげで近づく敵が見えた。大型犬に似た獣が四頭。囲まれたらジャン独りでは勝てるかどうか微妙な数だ。獣が通路に拡がり襲いくる。


 ジャンはリリーを助けないと決めた。リリーを守る壁役は必要ない。用心すべきはリリーの邪魔をしない位置取りだ。


 隣にいるリリーの頭上の光る球から二筋の光が放たれた。光は二頭の狼の頭を貫通する。


 リリーの頭上の光る球は照明を兼用した武器だ。詳細な威力はわからないが、獣の頭蓋骨くらいなら軽く貫通する。


二体の死んだ獣は勢い余って通路を物のように転がる。リリーはヒョイと転がる獣を避けた。

「試練の迷宮での敵が朝飯前なら、今のは近づく間もなくか。これはお父さんの威厳を守るのは大変だぞ」


 ジャンは剣を両手で握る。襲ってきた一頭目には頭に剣を叩き込む。一頭目の頭が砕け、剣が食い込む。勢いでそのまま、一頭目の体を二体目に叩きつけようとした。二頭目は迫る一頭目の死体をスッと躱す。


 二頭目はジャンの脇腹めがけて噛みついてきた。獣の牙が届く前に、剣の柄で二頭目の頭を殴った。二頭目の頭が下がったところを蹴り上げた。二頭目は急いで姿勢を戻そうとするが、フラフラしている。


 隙を逃さずにジャンは剣を振り下ろす。ジャンの一撃が敵に止めを刺した。


 パチパチと手を叩く音がする。リリーが目を輝かせて喜んでいた。

「おとうさん、凄いの」


 もう少し年上の女性が口にしたら嫌味に聞こえた。獣四頭がリリーに殺到しても、リリーは傷一つ負わなかった。


 狂信の迷宮での初戦は生き残った。剣の血を拭っていると、通路の闇に光が見えた。光の差す方向から複数の靴音がしてきた。

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