第三話:沈黙という名の防壁
銀の皿に盛られた鮮やかな果実。湯気を立てる琥珀色のスープ。
栞はカトラリーを握ったまま、微動だにしない。
朝食の席。
長テーブルの向かい側で、アレクシスが心配そうな眼差しを向けている。
「口に合わないだろうか。それとも、まだ疲れが?」
口を開けば、何が飛び出すかわからない。
『毒を盛ったか』と激怒するか、『あなたに食べさせてほしいわ』と媚態を示すかの二択。
栞は唇を固く結び、ゆっくりと首を横に振った。
アレクシスの金糸の髪が揺れる。
彼はふっと目を細め、感嘆の吐息を漏らした。
「……なるほど。祈りの最中であったか」
「食事の誘惑に負けず、朝からこの国の安寧を案じてくれているのだな。君のその静寂、真の聖女たる証だ」
違う。喋ったら殺し合いか結婚が確定するだけだ。
胸の内で突っ込みながら、栞は呼吸を整える。
視界右下のウィンドウ表示は【90bpm:安定】。
沈黙は金。今はただ、冷たい石像に徹するしかない。
*
石造りの城壁。冷たい風が頬を撫でる。
眼下に広がるのは、石畳の街並みと、遠くそびえる険しい山脈。
栞の視線は、城門の警備兵の配置、堀の深さ、馬車道の傾斜へと注がれていた。
逃走経路の探索。
右隣には、当然のようにアレクシスが寄り添っている。
「シオリ、あそこに見えるのが我が国の穀倉地帯だ。君の祈りがあれば、今年も豊作が約束されるだろう」
熱を帯びた声が横顔を撫でる。
栞は何も答えない。
視界の端の数値を意識しながら、地形の情報をひたすら脳に刻み込む。
書けば変質するノートは役に立たない。
北門の兵は三名。交代は太陽が真上に来た時――。
脳髄が焼き切れそうなほどの情報処理。瞬きすら惜しい。
「君の瞳は、常に民の生活を見守っているのだな」
アレクシスが胸に手を当て、深く頭を下げる。
護衛という名の監視役は、栞の無機質な観察すらも「慈愛の視線」として受け取っていた。
都合のいい誤解。だが、今はそれに乗るしかない。
不意に、けたたましい角笛の音が空気を切り裂いた。
城門がざわめき、衛兵たちが一斉に槍を構える。
砂塵を上げて近づく、黒い馬に跨った一団。
先頭の男が、血に濡れたような深紅の布を掲げていた。
*
謁見の間。
一段高い玉座の国王。周囲を何重にも取り囲む騎士たち。
中央に立つのは、魔王軍の使者。
全身を黒鉄の鎧で包み、兜の奥からぎらつく眼光を放っている。
男の足元に投げ出されたのは、どくどくと脈打つ肉の塊のような親書。
鼻を突く血と獣の匂い。広間を制圧する圧倒的な殺気。
栞の胸の奥で、激しい警鐘が鳴り響く。
ドクン、ドクン。
視界右下のウィンドウが、黄色から赤色へと染まり始める。
【心拍数:130bpm……140bpm。ストレス値:急上昇】
使者が低くしゃがれた声を発した。
「我らが主からの親書である。降伏か、死か。選べ、人間共」
玉座の間の空気が凍りつく。
国王の視線が、アレクシスの視線が、そして使者の殺意が、一斉に栞へと突き刺さった。
『聖女様の御言葉を!』
周囲の無言の圧力が、栞の喉を容赦なく締め上げる。
【心拍数:150bpm。閾値突破】
パニックが理性を焼き尽くしていく。
震える唇の隙間から、堪えきれない嗚咽のような息が漏れた。
沈黙の防壁が崩れ去る瞬間。




