第二話:婚姻の鐘は絶望の音
「よかろう、これほどの愛、余が認めぬ道理はない!」
玉座の男――国王の怒号めいた笑い声が、ホールを震わせた。
視界の端のウィンドウが、警告の赤から毒々しい桃色へと点滅を続けている。
栞の指先は、アレクシス王子の大きな手のひらに包み込まれていた。
鉄の小手越しでもわかる、火傷しそうなほどの熱。
「王子殿下に祝福を! 聖女様に祝福を!」
一転して歓喜に沸き立つ騎士たち。
数分前まで栞の喉元に突きつけられていた剣が、今は祝福のアーチを作っている。
違う。
栞は首を激しく横に振った。
恐怖で強張った顔。引きつる頬。
必死に「NO」を捻り出す。
「無理です、結婚なんて、勘弁してください……!」
だが、魔力という歪なフィルタを通したその悲鳴は、空間を震わす甘い吐息へと変換された。
『ああ、待てないわ。今すぐこの場で私を奪って、めちゃくちゃにして!』
ホールの空気が凍り、次いで爆発的な歓声が上がった。
アレクシスの顔が限界まで朱に染まり、彼は祈るように栞の手に額を押し当てた。
「……そこまで私を求めてくれるとは。騎士の誓いに懸けて、君を幸せにしよう」
栞は自らの口を両手で塞ぎ、その場に頽れた。
膝を打つ硬い石の感触だけが、これが現実だと告げていた。
*
案内されたのは、息が詰まるほど豪奢なゲストルームだった。
天蓋付きの広大なベッド。壁一面に描かれた神話のフレスコ画。
だが、重厚なオーク材の扉の向こうには、微かに金属が触れ合う音が聞こえる。
護衛という名の監視。完璧な黄金の鳥籠。
栞はベッドに身を投げ出し、視界右下のウィンドウを睨みつけた。
【言語設定:JAPANESE → LITHOS COMMON】
【論理変換回路:致命的なエラー(復旧率 0%)】
【情動増幅回路:アクティブ】
指先で空をなぞり、設定項目をタップしようとするが、ホログラムのような画面は指をすり抜けるだけ。
コンコン。
控えめなノックの後、一人の侍女が入ってきた。
銀色の盆に乗せられているのは、ドロリとした紫色の煮込み料理。
鼻を突くのは、香草と泥が混ざったような強烈な臭気。
胃液がせり上がる。
【心拍数:110bpm、微小なストレス反応を検知】
「あの、これ、食べられないんですけど……」
努めて冷静に伝えたつもりだった。
しかし、翻訳の増幅回路は、その「わずかな不快感」を極限までブーストした。
『この毒物を盛った賊を全員、中庭で八つ裂きにせよ!』
盆が床に叩きつけられた。
紫色のペーストが絨毯を汚す。
「ひ、ひぃぃっ! お許しを、聖女様!」
侍女は床に這いつくばり、ガタガタと震え出した。
まただ。
栞は頭を抱えた。自分の言葉が、凶器になって人を切り裂いていく。
「違う、そうじゃないの、ごめんなさい」
泣きそうな声で謝罪を紡ぐ。
【羞恥・罪悪感によるストレス値上昇を検知】
『あなたのその震える姿、ゾクゾクするわ。もっと私を楽しませて』
侍女は小さな悲鳴を上げ、転がるように部屋から逃げ出していった。
沈黙が降りる。
栞はドレスのポケットを探り、見慣れたキャンパスノートとボールペンを引き抜いた。
喋れないなら、書けばいい。
言語学徒としての唯一の武器。筆談。
『私は日本から来ました。言葉が通じていません』
ページにインクを走らせる。
だが、インクの染みた紙面が淡く発光し始めた。
文字の形が崩れ、うねり、幾何学的な紋章へと変質していく。
「嘘、でしょ……」
文字すらも魔法に汚染されている。
音も、文字も、すべてが意図から剥離していく。
ガチャリ、とバルコニーの窓が開いた。
夜風と共に、アレクシスが姿を現す。
手には白百合の花束。
「驚かせてすまない。君の愛に、最高の形で応えたくて」
彼はひざまずき、栞を見上げた。
「挙式は三日後だ。国を挙げての祝いになる」
死の宣告。
栞の視線が、部屋の隅で揺れる燭台の炎を捉える。
三日。
言葉が封じられた世界で、逃げ出す方法を見つけなければならない。




