第一話:召喚の儀と血の挨拶
焦げた獣の脂と、ひどく埃っぽい羊皮紙の匂い。
肺を満たす異臭に、織田栞はむせ返って目を覚ました。
掌から伝わるのは、氷のように冷たい石の感触。大理石。
瞬きを繰り返す。網膜に焼き付いた幾何学模様の残光が、ゆっくりと薄れていく。
大学の図書館ではない。
視界の右下。埃を被ったような半透明のウィンドウが明滅している。
『翻訳魔法:バベルの楔、インストール完了』
脈絡のない文字列。
見上げると、一段高い玉座に肥え太った男がふんぞり返っていた。
豪奢なマント。濁った眼球が、値踏みするように栞を見下ろしている。
ドクン。
心臓が大きく跳ねた。喉の奥がカラカラに乾く。
周囲を取り囲むのは、全身を鎧で覆った屈強な男たち。
逃げ場はない。
言語学の基本。未知の言語圏でのファーストコンタクトは、敵意のない穏やかな自己紹介から。
「初めまして、織田栞です。私は日本から――」
唇から紡がれたのは、間違いなく日本語の音声。
だが、空気を震わせた振動は、奇妙なノイズを伴って空間に響き渡った。
『死に晒せ、老いさらばえた豚め。貴様の首を庭園の肥やしにしてやろう』
耳を疑うような重低音。
それが、栞の口から発せられた言葉の『翻訳結果』だった。
玉座の男の顔が、土気色からどぎつい朱色へと染まり上がる。
チャキ、と。
硬質な金属音がホールに反響した。
抜剣。
十数本の切っ先が、一斉に栞の喉元へと向けられる。
視界の端のウィンドウが、警告を示す赤色に染まった。
【心拍数:140bpm / ストレス値:高域を検知。翻訳モード:『宣戦布告』】
銀色の刃が、鼻先数センチに迫る。
肌を刺す冷気。
「待って、殺さないで、助けて……!」
ひきつる声。膝が震え、涙が視界を滲ませる。
死の恐怖。極限のパニック。失禁寸前の命乞い。
明滅するウィンドウの色が、唐突に赤から『毒々しい桃色』へと反転した。
【過緊張・極度の羞恥反応を検知。翻訳モード:『過剰求愛』へ移行】
『ああ、その鋭い刃で私を貫いて。あなたの瞳に射抜かれた瞬間、私はあなたの奴隷になったの』
甘ったるく、官能的な声が響く。
ホールを支配していた殺意が、不気味な静寂へと取って代わられた。
突きつけられた剣先が小刻みに震えている。鎧の奥で、騎士の顔が真っ赤に染まっていた。
玉座の男も、ぽかんと口を開けて固まっている。
静まり返る空間。
甲冑の擦れる音だけを響かせ、一人の青年が歩み出てくる。
金糸のような髪。彫刻めいた整った貌。
「……そこまでの覚悟を持って、私に求婚するとは」
真摯な瞳。
ひざまずく長身。第一王子、アレクシス。
熱を帯びた彼の手が、震える栞の指先をそっと包み込む。
最悪のすれ違いが、産声を上げた瞬間だった。




