第十二話:誤訳のない世界で
崩れ落ちる石柱の轟音。
玉座の間を、幾筋もの亀裂が走る。
アレクシスは片膝をつき、剣を杖にして栞をじっと見つめていた。
言葉は通じない。その瞳に宿るのは、一切の疑いを持たない絶対的な信頼の光。
視界に浮かぶ、最後のウィンドウ。
【最終承認:最愛の者への『真実の言葉』を要求します】
栞は彼に向き直る。
「愛してる」などという、辞書に載っている定型句ではない。
恐怖。混乱。怒り。絶望。
その泥濘の中で確かに掴み取った、彼の手の温もり。
「あなたのせいで、何度も死ぬかと思った」
声が震える。
「でも、あなたがいたから、私は言葉を信じられた」
一歩、彼に近づく。
「私と一緒に、この不便な世界を生きて」
心拍数の鼓動と、言葉の波長が完全に重なる。
一ミリのズレもない、純粋な意志の表出。
栞の胸から放たれた黄金の光が、玉座の間を呑み込んだ。
*
圧倒的な光の中。
魔王の身体が、淡い光の粒子へとほどけていく。
何百年もの間、憎悪と悲しみに歪んでいた彼女の顔。
そこには今、憑き物が落ちたような安らぎが広がっていた。
「……ありがとう」
翻訳魔法を通さない、確かな日本語の響き。
「次は、あなたが幸せに」
光の粒は天へと舞い上がり、雪原の風に溶けて消えた。
視界の端。
明滅していたウィンドウが、パツンと音を立てて消失する。
世界を覆っていた『バベルの楔』が、完全に砕け散った瞬間だった。
*
それから、数ヶ月後。
王都の図書室。開け放たれた窓から、柔らかな風が吹き込む。
栞は机に向かい、羊皮紙にペンを走らせていた。
『日本語・リトス共通語 基礎語彙集』
インクで指先を汚しながら、一つ一つの単語を定義し、対話の土台をゼロから組み上げている。
コツ、コツ。
足音に顔を上げる。
「シオリ」
アレクシスが、二つのティーカップを手に立っていた。
彼は少しだけ頬を掻き、真剣な目で栞を見る。
「オハヨ、シオリ。おチャ、ノム?」
たどたどしい発音。奇妙なイントネーション。
魔法の力など一切借りない、彼自身の努力の結晶。
「おはよう、アレクシス。ありがとう」
栞の唇が、自然と弧を描く。
翻訳魔法のない世界は、圧倒的に不便だ。
些細なすれ違いで何時間も辞書を引き、身振り手振りで汗をかき、それでも真意が伝わらないことなど日常茶飯事。
夕暮れ時。
二人はバルコニーに並び、オレンジ色に染まる街並みを見下ろしていた。
アレクシスの大きな手が、栞の指先にそっと重なる。
辞書には決して載らない。魔法も介在しない。
ただの体温。重なり合う静かな鼓動。
もう、誰も勝手に言葉を捻じ曲げない。
伝わらないからこそ、伝えようとあがく。
完璧な翻訳など、この世界には必要ない。




