第四十八話 北へ
僕は、二人がセレスティア様と死闘を繰り広げてくれている間に、密かに自身の縁を極限まで練り上げ、ただひたすらに『ある時』を待った。
セレスティア様があの『紫電斬』という規格外の技を披露した時は、あまりの絶望感と興奮で、練り上げていた気が解けそうにもなった。
だが、兄が用意したフェイントと、セリナの荒々しい縁の性質を囮に使って不意打ちを当てるというこの三段構えの作戦は、見事に成功した。
セリナが自身の縁をことさら高く荒々しく練り上げる事により、背後にいる僕の縁の存在を上手く覆い隠し、セリナが自らの縁を破裂させて霧散させたその瞬間の隙を突いて、僕の魔術『水穿』を放つ。
それまでの、小斧の生成やセリナの魔術を利用した物理攻撃の加速など、全てが兄の考えた『セレスティア様の意識を逸らす為の作戦』だった。
「や、やった……」
思わず、安堵で気の抜けた声を出してしまった。
たった一撃。
ただのかすり傷だが、あの絶対者であるセレスティア様に一矢報いることが出来て、心の底から嬉しかった。
「最初から仕組まれていたと言う訳か。……この最後の一発の隠れ蓑にする為に」
セレスティア様の美しい額は、ほんの僅かに赤くなっていた。
(それにしても、僕の最高火力の魔術を無防備に食らって、この程度の傷で収まるのか……)
「上手くいって良かったです」
「やはり、貴様の作戦だったか。……中々良い作戦だったぞ」
少し離れた場所から、兄が駆けつけてきていた。
「ありがとうございます。セレスティア様にそう言って頂けて光栄です」
真っ向勝負では絶対に勝てない。
不意を突くことでしか、今の自分たちではセレスティア様に攻撃を与えられないと踏んだ兄が、三人の手札を組み合わせて導き出した、現状の最適解。
兄の足場を崩された直後、小斧を自身の魔術で戦斧に変形させたセリナのあの技は、全くの想定外。
あの瞬間の彼女の即興だったらしい。
「や、やったわぁぁ!最後の最後でシエロに美味しいところを持っていかれたのは悔やまれるけど、それでもやっと課題を終えられたわ!」
セリナも戦斧を消し、嬉しそうに走って戻ってきた。
「お疲れ様です、セリナ。二人が身体を張ってくれたおかげで、僕の一発が成功したのですよ」
「あ、当たり前じゃないの!実際、私が前衛に合流して一回目で終わらせられたんだからね!」
確かに、兄の完璧な作戦があったとはいえ、セリナが前衛に戻ってきてからたった一回目でセレスティア様の課題を終えることが出来たのは事実だ。
「縁の性質は相変わらず荒いが、今回はその性質の荒さを逆手に取り、不意を突く目くらましに使った。作戦が良かったのもあるが……今後は縁のコントロール云々より、基礎的な剣術の型をさらに習得していくのが、貴様には合っているのかもしれんな」
「決めたわ!私は魔術に頼らなくても、前衛で誰にも負けない最強の戦士になるわ!」
セレスティア様からセリナにかけられた言葉は、彼女にとって今後さらに強くなる為の確固たる指針となったようだ。
「ソル。貴様は魔術以外のことには、あまりにも興味を惹くことが今まで全くなかったが……今回の策で、私の中での評価が変わった」
その真っ直ぐな賛辞を聞いた兄は、どこか現実を受け止めきれないような驚きの表情をしていた。
といっても、兄は魔術の腕前だけで言えばすでに上級クラスなので、一般的に見れば人気者であり、他人に興味を持たれない方がおかしい分類の人間でもある。
「貴様は、私が悠久の時の中で見てきた人間の中でも、かなり『知』に長けている」
兄の驚いた表情は次第にやわらぎ、誇らしげに顔を上げた。
「前回までは、貴様が少し動きを変えたと思っても、結局は似たような魔術の攻撃しかしてこなかった。だから、今回もそこまで貴様の動きを気にかけることもしなかった。……だが、今回は完全にサポートに徹し、この私を騙すような見事な小細工までやってのけたな」
セレスティア様は、珍しく兄の能力を真っ直ぐに認めるように褒めていた。
しかし、兄は決して子供のように嬉しがる様子は見せず、あくまで冷静に、冒険者として当然の評価を受け取るように聞いていた。
(このっ、クールぶりやがって兄め!)
「セレスティア様にそう言って頂けて光栄です」
「貴様が、もし今日の為に今までずっと『同じ攻撃』を繰り返して私に刷り込ませ、仕組んでいたのだとすれば……まずまずと言うべきだな」
「……さぁ?そこは、秘密にさせていただきます」
そう言うと、兄は僕の方を向いてニヤリと笑った。
腹が立つが、言い返す言葉もそこまで無いのが、さらに僕の腹を立たせる。
「そして、シエロ」
セレスティア様は、最後に僕の方へと向き直った。
「はい」
「自分でも気づいているかは知らんが、今までの特訓の中で一番、完璧に薄皮一枚で縁を練り上げられていたぞ」
(上手く縁を練れていた!?極限まで集中し過ぎていて、自分では気が付かなかった……!)
「ほ、本当ですか!?」
「あぁ。現に、小娘の荒い縁を利用した目くらましが無くとも……私は、貴様の練る縁の気配から、居場所を瞬時に特定できなかった」
僕はその言葉を聞いて、一瞬ではあるがセレスティア様の感覚を越えたのだと実感し、心の底から嬉しくなった。
「あ、ありがとうございます!まさか、セレスティア様に気づかれずに縁が練れるようになるなんて、思ってもみませんでした!」
(やったぞー!これなら、いつか本当にセレスティア様と肩を並べられる主になれるんじゃないか!)
「シエロ……中々、やるじゃない!」
「ありがとうございます。セリナ!」
セリナも、相変わらず素直ではない言い方だったが、ちゃんと僕を褒めてくれた。
「おい、勘違いしているみたいだが。私が全力で気配を探れば、貴様程度の縁の流れなど、まだまだ簡単に読むことは出来るレベルだからな」
(……先ほどの、肩を並べられるという内心の言葉は、一旦撤回しておこう。だが、着実に成長している事は確かだ)
「それでも、いつか必ずセレスティア様と肩を並べられる主に成長して見せますよ!」
「フッ。……まぁ、それはひどく難しいだろうな」
そうして、僕達の長く苦しかった『セレスティア様の最終課題』は、無事に幕を閉じたのだった。
その日の夜は、母様とフィオナさんによる豪華な料理を囲み、アジトのリビングでちょっとした宴会が行われた。
こういうお祝いの時にも、当たり前の様にベンジャンさんの姿は見当たらなかった。
「いただきます!」
テーブルには、僕達が訓練をしている間に父が狩ってきた魔獣の肉のローストや、母がここに来て育て始めたハーブを使用した香り豊かなサラダ、身体の温まる特製スープなど、これまでの疲れを癒やすご馳走が並び、僕たちはそれを思う存分に味わった。
宴会を始めて、少し時間が経過した。
フィオナさんと父は相変わらずお酒の癖が凄く、父は何度聞かされたか分からない自身の武勇伝を熱く語り始め、フィオナさんは酔って服の露出が増え、無駄に僕の神経を狂わせてくる。
ユーノさんとセリナは、「どちらが魔獣の肉を多く食べられるか」と意地を張って大食い争いをしていたり、兄はそんな父の武勇伝の相手を適当に流しながら聞いていたり。
そんな騒がしい空間の中、母様だけは一人優雅に食後の紅茶を楽しんでいる。
なんだかんだで、今はこの騒がしさがとても幸せな時間なんだと、僕は感じた。
「よし! セリナとユーノさん、僕もその大食い勝負に参加させてください!」
「いいわよ!でも、シエロってそんなに沢山食べられるの?」
「そうだぞシエロ!俺たちはもう、とっくに二皿は平らげたぞ!」
二人とも、既に限界が来ていそうなくらいお腹はパンパンに膨れていた。
だが、今の僕は課題を終えた解放感から、ただこの楽しい時間を最高に楽しみたいだけだった。
「それじゃあ、僕も直ぐに食べて二人に追いつきますよ!」
僕が大きな肉を手に取り、豪快にかぶりつこうとした時――。
アジトの扉が開き、誰かが入ってきた。
「えっ。ベンジャンさん!?」
そこに居たのは、何か沢山の荷物を背負い込んだベンジャンさんだった。
「ちょっとアンタ、まさかこの宴会の時だけ美味しいお肉を食べに参加しに来たんじゃないわよね?」
セリナは、ベンジャンさんから自分のお肉の皿を守るように、ジト目で警戒していた。
「あらぁ、隊長どうしたの?今夜は坊やたちの厳しい特訓が無事に終わって、皆で宴をしているところよ〜」
フィオナさんは酔った足取りで、帰ってきたベンジャンさんにすり寄った。
だが、ベンジャンさんは特に気にする様子もなく、真っ直ぐにセレスティア様の方へと向かった。
「……何か、大きな情報を掴めたような顔をしているな」
セレスティア様はベンジャンさんの真剣な顔を見て、静かにそう言った。
「はい。セレスティア様。ようやく……因果の断罪者の宿縁具の在処について、不確定ではありますが有力な情報が入りました。氷山の一角にある極寒の地、イースラントに宿縁具が眠っているとの報告が、信頼する情報屋から入ってまいりました」
(因果の断罪者 ネメティアの、宿縁具!?)
ベンジャンさんの口から出たその重要な言葉に、宴会で騒いでいた全員がピタリと動きを止め、一言一句聞き逃さないように耳を澄ませた。
「それと、もう一つ……新たな情報も掴めました」
「ほう?」
セレスティア様は、ベンジャンさんの言葉に僅かに眉をひそめ、興味を示した。
「実は……因果の従者らしき者たちが、数日前に北の国へと向かったという情報も仕入れました」
(因果の従者と言えば……『万象の従者』であるベンジャンさん達みたいな、ネメティアに仕える者達のことか)
「その情報屋は、本当に信用できるのか?」
「……はい。かつて、セレスティア様の宿縁具を見付けた際にも、主の居場所を我々に正確に助言してくれた者ですので、十分に信用に値するかと」
少しの間、セレスティア様は何かを深く考えていたが、やがて静かに立ち上がった。
「七日後。我々は北の国へ向かう。もう一度言うが、北の国は過酷な環境に適応した気合の入った強力な魔獣が多くいる危険地帯だ。それに、六皇神やそれになぞる強力な魔族が潜んでいても可笑しくはない」
セレスティア様の言葉で、先ほどまで温かく賑わっていた食卓の空気が一変し、肌を刺すような緊張感が張り詰めた。
(魔族……。また、あの時のハイケルや森で出くわした強い魔族に出くわした場合、今の自分はあの時よりももっと上手く戦えるようになっているだろうか)
すると、兄が少し前に出た。
「セレスティア様。実際に北の国に向かうのは、どういったメンバーの構成になるのでしょうか?お母様も居ますので、アジトを空けて全員で行く訳にもいきません」
「それについては、私から話そう」
セレスティア様に代わって、ベンジャンさんが僕達の方へ振り返った。
「北の国へ向かうメンバーだが……今回の主役である、セリナ・ベルギア。それと、シエロ・アルランド。勿論、セレスティア様も同じ。そして、私も同行する予定だ」
北の国の選抜メンバーの発表は、何処か不思議な緊張感があった。
「勿論、戦力となる動員が多ければありがたいが、向かう先はこれまで以上の危険地帯だ。その命のリスクを背負ってでも、他に参加したい者はいるか?」
セレスティア様の問いかけに、最初に答えたのはフィオナさんだった。
「今回、私はパスさせていただくわ。私は皆が北の国に向かっている間、他の『原初の子』や『六皇神』の動向について調べるつもりよ」
先ほどまでお酒に酔って絡んでいたフィオナさんとは別人のように、その瞳は情報収集を生業とする者の鋭くしっかりとした光を帯びていた。
それは、父も同様だった。
「俺は、今回シエロ達についていくつもりです。やはり、我が子をまだ一人で危険地帯に行かせるのは、父親としてどうにも落ち着かなくてな」
「あなた……」
「大丈夫だ。今回は、ソルが母さんの傍に居て護衛する予定だからな。……シエロもセリナちゃんも、俺が責任もって見る予定だよ」
「……分かったわ。必ず、全員無事に戻ってきてね」
母は、父の大きな手を不安そうに強く握った。
「と言う訳で、ソルはここに残ります」
「はい。俺は母さんの傍に居させていただき、ここのアジトの護衛も兼ねさせていただきます」
それを聞いたベンジャンさんは深く頷き、これで北の国へ向かうメンバーが正式に決まった。
「ユーノは行かないのよね?」
「ん?俺は行かねーぞ。俺には、このアジトを維持する役目があるしな」
セリナがユーノさんに一応聞いてみたが、彼女にはこのアジトの維持と訓練所の修復がある限り、頻繁に遠出は出来ないらしい。
それからは、北の国へ向かう選抜メンバーは、出発までの七日間、さらに実戦を想定した特訓に励んだ。
実際に森の奥深くへと入り、魔獣を相手にした連携練習などを何度も行った。
基本的には、僕とセリナ、そして父がメインとして前衛と後衛に分かれて戦闘する。
規格外の敵や、想定外な事態が起こった時のの為に、ベンジャンさんやセレスティア様は極力戦闘を避け、縁を温存する事になっている。
そして、七日後。
季節は八月へと移り変わっていた。
外に出ると、夏のジリジリとした暑い日差しが僕達を襲うが、これから向かう場所が場所なだけに、背負っている荷物の中には分厚い防寒具が多く詰め込まれている。
去年の今頃は、セリカの誕生日を祝っている頃だった。
この一年で、本当に沢山の出来事があったし、数え切れないほど多くの経験をした。
そんな事を思い出しながら、僕は夏の空を見上げ、一人心の中で大切にセリカの誕生日を祝った。
(誕生日おめでとう、セリカ)
目を閉じ、彼女の無事と幸せをゆっくりと願った。
「お〜い!シエロ、何ボケっとしてるのよ〜。もう行くわよ、早くしなさい!」
準備を終えたセリナの元気な声を聞き、僕は皆の待つアジトの外へ向かうことにした。
「今、行きます!」
すると、留守番組であるお母様とお兄様、そしてフィオナさんが、アジトを出る前の僕を引き止めるように声をかけてくれた。
「シエロ!無茶だけは絶対に駄目だからね。危ないと思ったら、すぐにセレスティア様に頼って逃げるのよ」
母はそう言って、僕の手を両手でギュッと握りしめてくれた。
「大丈夫ですよ、お母様。ちゃんと、無事に戻ってきますから」
母の手は白く、優しくて温かい温度だった。
「シエロ」
「何でしょう、お兄様」
「まだ、こっちでもやる事があるんだ。……だから、ちゃんと帰って来いよ」
兄は恐らく、ルイドスの動向などについての事を言っているのだろう。
「はい、勿論です。では、お母様、お兄様、フィオナさん……行って参ります!」
そのまま、僕はユーノさんのワープゲートに入り、地上へと出た。
地上に出ると、既に出発のメンバーが僕を待っていた。
「すみません。少し遅れました」
手ぶらのセレスティア様以外は、皆何かしらの荷物を背負っていた。
前衛の戦闘を任せられているセリナとお父様は、動きやすさを重視した軽めの荷物だった。
「準備は良いか、シエロ」
「はい、ベンジャンさん。このまま、ワープで一気に北の国へ向かうのですか?」
ベンジャンさんの手には、あの『瞬移宝鏡』が握られていた。
「いや、まずはユーノの空間魔術で西の国の端まで飛ぶ。そこから、この鏡で印している、北の国に一番近い中継地点へと向かう」
(やはり、瞬移宝鏡は事前にマーキングしている場所にしか飛べないのか。そう思うと、ユーノさんの魔術って便利すぎないか?)
「北の国には、その印は無いのでしょうか?」
「ない。あればとっくに既につけて飛んでいる」
急にベンジャンさんは声が低く、ドスが効いたようになる時があるから少し怖くなる。
「お〜い、お喋りは済んだかぁ〜?」
「すみません、ユーノさん。よろしくお願いいたします」
そう言うと、僕達の立っている空間が、段々とグニャグニャと歪み始めた。
(この、内臓が浮き上がるような嫌な感じ……)
「それじゃあ、気をつけて行くぞぉー!」
ユーノさんの声と共に、視界だけではなく、頭の芯までもがクラクラと揺れ始め、景色がマーブル模様のように歪んで見えるようになってきた。
視線を横に向けると、セリナは既に青ざめた顔で口を両手で押さえていた。
そして……。
「どぉぉぉりゃぁぁぁーっ!!」
ユーノさんの気合の入った大きな声と同時に、完全に視界が捻じ曲がり、頭の中が真っ白に弾けた。
(あ、これ……絶対に駄目なやつだ……)
なんだか、息も出来ないような、全身が振り回されているような最悪の感覚だった。
時間にして数秒のはずが、感覚的には何時間もその気持ち悪い異空間に閉じ込められているようだった。
気が付いた時には、以前、確認の儀で訪れた、あの荒涼とした山岳地帯に立っていた。
だが、そんな懐かしさに浸るよりも先に、内臓の奥底から込み上げてくる強烈な吐き気が僕を襲った。
「おえぇぇぇぇぇぇッ」
盛大に吐いた。
涙目で周りを見ると、セリナも、そして屈強なお父様でさえも地面に四つん這いになって完全にやられていた。
(なんで、セレスティア様もベンジャンさんも平然と立ってて無事なんだ……)
「ちょ、ちょっと……なんで今回、こんなにも気持ちが悪くなるのよ……前もこんなに強烈だったわけ……?」
セリナは口元を拭いながら、無表情で立つベンジャンさんに恨めしそうに聞いた。
「知らん。あいつが、見送るために無駄に気合いを入れ過ぎたのだろう」
「それにしても、情けなくて面白い光景だな。これでは、北の国にたどり着く前に死ぬんじゃないのか?」
セレスティア様は、地面に這いつくばる僕達を心底楽しそうに馬鹿にしていた。
「す、少しだけ……少しだけ、小屋で休憩してからその魔道具を使用してください……オエッ……」
お父様も胃の限界を迎えながら、必死に現状の最適解を要求してくれた。
「……いいだろう。あそこの小屋で少し休もう」
そうして、僕達三人は互いに肩を組み、ボロボロの状態で山岳地帯の小屋に向かって休む羽目になった。
「それにしてもユーノの奴……生きて帰ったら、絶対にボコボコに怒ってやるんだから……」
しばらく休んで、僕達は何とか体調を取り戻した。
そこからは、ベンジャンさんが持っていた『瞬移宝鏡』の力で、西の国の西北端部へと空間移動した。
先ほどのユーノさんの荒々しい魔術に比べれば、鏡の移動は驚くほど静かで、かなりマシだった。
西北端は、八月だと言うのに既に気温も低く、肌を刺すような冷たい風が顔の皮膚を容赦なくなぞる。
ここからはあの極寒の地へ向けて、獣道の様な険しい山道を自分たちの足で歩いて進むようだ。
「ここから歩いてどのくらいで、北の国に到着するのですか?」
「天候にもよるが、順調に歩いて二日程度だ」
ベンジャンさんは短くそう言って、先頭に立って歩き始めた。
それに続き、僕達も雪が混じり始めた土を踏みしめ、ベンジャンさんの背中に続いた。
僕の隣を歩くセレスティア様は、この遅い歩みに少し退屈そうだった。
多分、セレスティア様なら、二日もかけずに一瞬で到着できるのだろう。
「セレスティア様」
「なんだ?」
「その……前の主……いえ、過去の僕は、一体どんな人物だったのですか?」
ずっと気になっていた事を口にすると、セレスティア様は唐突な僕の質問に、少しだけ眉をひそめた。
「急に話しかけたと思えば……なんだ、そんなに以前の自分のことが気になるのか?」
「い、いえ!単なる好奇心というか、そういう訳じゃありませんが……。今の自分は、以前の自分よりも、ちゃんと主として出来ているのかなって……」
僕が自信なさげに呟くと、セレスティア様はフッと明るく、どこか懐かしむような表情で前を向いた。
「別に、気にする必要は無い。悠久の時の中で、これまで私の主となった奴らは皆……今のシエロと似たような、性格ばかりだ」
「そ、そうですか」
その言葉に、僕は心の底から少し安心した。
歴代の僕がどうであったかは分からないけれど。
僕は、今までで一番、この人に頼りにされる最強の主になりたい。
冷たい風に吹かれながら、そう、強く心に誓った。
「シエロ!何一人で立ち止まっているのよ!置いていくわよ!」
少し前を歩くセリナの元気な声にハッとして、僕は止まっていた足を再び動かした。
「いえ、何でもありません!今行きます!」
こうして、因果の宿縁具を求める、僕達の過酷な北の国への旅が幕を開けたのだった。




