第四十一話 縁の役割
僕とセリナは現在、終わりの見えない森の中をひたすらに走っていた。
「待って、待ってシエロ……ッ!本当にもう無理、死んじゃう……!」
「僕だってしんどいんですから、セリナも弱音を吐かずに頑張って走ってください!」
事の発端は、十五分前。
「どうせ『二人で私に攻撃を一撃でも当てられたら合格』みたいな感じでしょ!」
セリナは得意げな顔で戦斧を構え、セレスティア様の目の前でいつでも特訓の戦闘に入れるよう準備を整えていた。
僕もセリナに続いて深く一呼吸し、縁を練り上げる。
(『一撃でも当てたら合格』なんて条件の修行、大抵は全く歯が立たずに全然終わらないオチなんだよな……)
なんて、僕もセリナもすっかりそういう展開になると思い込んでいた。
セレスティア様から、予想外の言葉を耳にするまでは。
「……貴様ら、一体何を言っている?」
「な、何って何よ!さっさと始めるわよ!」
呆気にとられるセリナを見て、セレスティア様は信じられないものを見るような目で、深くため息を吐いた。
「貴様らは圧倒的な雑魚だ。基礎体力も全く無い。まずはひたすら走り込みだ。走って、走って、限界まで走りまくれ。以前の主も、最初はこうやって基礎から鍛えてきた」
そのあまりにも地味で過酷なメニューを聞いて、セリナは分かりやすく嫌な顔をした。
「えっ……は、走り?」
「そうだ。まずはこの森を一周……いや、このサイズ感の森なら三周だな」
「ちょ、ちょっと待ってよ!このバカデカい森を、今から三周も走れって言うの!?」
セリナの言う通り、この森を三周するなんて正気の沙汰じゃない。
一周するだけでも、途中で心臓が弾け飛ぶんじゃないかと思うくらいしんどいのが容易に想像できた。
「セレスティア様。森を走ると言っても、木々が鬱蒼と生い茂っていて、走っている途中に自分がどこにいるか分からなくなってしまい、ここに帰ってこれないなんて事も想像できるのですが……」
僕がそんな屁理屈をこねて我儘な発言をすると、セレスティア様は無言のまま、右手にあの巨大な大剣を出現させた。
「セ、セレスティア様!?一体何を……!?」
(ヤバい!僕が言い訳なんてしたから、怒って殺される……!)
だが、セレスティア様は怯える僕たちに背を向けると、大剣を上段へと大きく振り上げた。
「つべこべ言わずに走れ。……だが、お前達がゴールを見失ったなどというつまらん理由でサボらないように、道くらいは作ってやる」
セレスティア様はそう言うと、そのまま大剣を無造作に振り下ろした。
ドゴォォォォォォォォォォォォッ!!!!!!
それと同時に、とんでもない暴風と衝撃波に襲われた。
目の前にあったはずの太い木々や巨大な岩が、まるで紙屑のように根こそぎ空の彼方へと吹き飛ばされていく。
僕とセリナは、自分たちまで吹き飛ばされないように、必死で背後の木にしがみついていた。
「ちょっと!何してるのよぉぉ〜〜〜ッ!?」
「クッ……!!」
そして、嵐のような暴風はほんの数十秒で嘘のようにピタリと収まり、セレスティア様は何事も無かったかのように大剣をしまった。
「ほら、出来たぞ。貴様らのランニングコースだ」
土煙が晴れた目の前の光景に、僕たちはあんぐりと開いた口が塞がらなかった。
「…………は?」
僕とセリナは、全く同時に間の抜けた声を上げた。
「どうした?早く走って来い。それと、私がここから監視しているからな。たとえ身に危険が迫っても、手くらいは貸してやるさ」
僕はゆっくりと……ものすごくゆっくりと、脳に入ってきた規格外の情報を整理した。
恐る恐る振り返ってみても、先ほどまで鬱蒼としていた森の中に、地平線の彼方まで続く綺麗で平らな一本道が丸く円を描くように出来上がっていた。
そう、セレスティア様は魔術すら使わず、たった一振りの剣圧だけでこの森を丸ごとぐるりと削り取り、僕達が走るためだけの専用コースを物理的に創り出してしまったのだ。
「あ、あんた……本当におかしいわ……」
セリナもようやく状況を理解し、ドン引きしたような顔で呟いた。
「とりあえず、陽が落ちるまでに三周走り切って見せろ」
これだけの無茶苦茶を見せつけられて、今更つべこべ言っても状況が変わらないのは火を見るよりも明らかだった。
ならば、僕たちにできる事は一つしかない。
「……行きますよ、セリナ」
僕は諦めて、セリナの一歩前に出た。
すると、負けず嫌いのセリナもハッとして、いつも通りの強気な調子に戻った。
「い、言っとくけど!私の方がシエロより絶対に早く終わらせるんだから!」
「僕も負けませんよ!森ではよく走ってましたからね」
そうして、僕達の地獄の特訓が幕を開けたのだった。
――現在。
とにかく、道自体は異常なほど走りやすかった。
地面は完全に真っ平という訳ではないが、視界を遮るものや邪魔する障害物が一切ない。
もはや、森の中を走っているという感覚すら無かった。
(それにしても、これをただの一振りでやってしまうなんて……恐ろしいにも程がある)
森の一周目は、身体能力に勝るセリナの方がやや早かった。
僕もセリナも、一周目を終えた時点で既に肩で息をしており、汗だくだった。
正直、このペースで後二周も走れる自信なんて全く無かった。
そして、二周目の折り返し地点。
僕はついに、前を走っていたセリナに追いつき、抜かすことができた。
彼女もかなり疲労が溜まっているみたいだ。
「待って、待ってシエロ……ッ!本当にもう無理よ…!」
「僕だってしんどいんですから、セリナも弱音を吐かずに頑張って走ってください!」
「まだ二周目も終わってないのに、私もう一歩も走れないよぉ……!」
(そんなこと言ったって、僕だって足が鉛みたいに重くて限界だ。だけど……強くなるためには努力するしかないんだ!)
僕はペースを落とすセリナを叱咤するように、あえて彼女を置いていくように走り続けた。
そうして、ようやく二周目を終えた。
ハァハァと荒い息を吐きながら後ろを振り返ると、意外にも、僕の目の見える範囲にセリナも歯を食いしばってついてきていた。
(驚いた。結構離したと思っていたけど、思った以上にセリナも意地で頑張っているな)
そして、三周目に突入した時。
僕はふと、ある明確な違和感に気が付いた。
よくよく考えてみれば、こんな広大な山の中を自分の足で三周も走るなんて、体力的に意味が分からなさすぎる。
と言うより……三周目に入って、しんどいのは死ぬほどしんどいのだが、限界を超えているはずなのに、なぜか走れてしまっているのだ。
普段の僕なら、絶対に走り切れるわけが無い距離とペースなのに。
そして、運命の三周目を走り終えた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁ……っ!!」
ゴールした瞬間、僕は一歩も動けなくなり、そのまま地面に大の字になって倒れ込んだ。
背中が地面に着いた途端、堰を切ったように凄まじい疲労感が全身に襲いかかってくる。
直後、すぐ後ろを走っていたセリナもなだれ込むようにゴールし、僕の隣へと完全に崩れ落ちた。
普段なら息をつく暇もないほどお喋りなセリナが、今は何も言わず、ただ酸素を体内に取り込むことだけに全神経を集中させている。
夕陽が地平線へと落ちる本当にギリギリのところで、僕たちは何とか二人とも三周という地獄のメニューをこなしたのだ。
「よく走り切った。今日のところはこれで終わりだ。安心しろ、明日もまた、この森を三周するところから始める」
そんなセレスティア様の無慈悲で容赦のない宣告が鼓膜を揺らしたが、今の僕たちには反論する気力すら残っていなかった。
ただただ、天を仰いで死人のように倒れていることしか出来ない。
ちなみにセレスティアはこの間、周囲の気配をより深く探っていた。
彼女の存在感に怯え、隠れている魔獣があわよくば現れないか、なんて思考を巡らせていたのだが……残念ながら、森の生物は完全に静まり返ったままだった。
それからしばらくして。
何とかアジトへと這い戻った僕達は、お母様とフィオナさんが腕によりをかけて作ってくれた晩御飯を、みんなで円卓を囲んで食べた。
案の定というか、当たり前のようにベンジャンさんの姿はそこには見当たらなかった。
きっとまた、どこかで黙々と任務をこなしているのだろう。
「それにしても、いきなり広大な森を三周も走らされるなんて……セレスティア様の特訓は、相変わらず鬼畜の所業ですねぇ〜!」
父は僕たちが帰ってくる前の昼間からずっとお酒を飲んでいたので、既に完全に出来上がっていた。
頬を赤くして、他人事だと思って楽しそうに笑っている。
(クソッ……!絶対に明日は、お父様も無理矢理にでも連行して一緒に走らせてやる!)
僕が心の中で血の涙を流しながらお父様への復讐を誓っていると、フィオナさんがトロンとした目でこちらを見て妖艶に微笑んだ。
「でも、よく二人とも最後まで走り切れたわねぇ〜、偉いわぁ。二人とも疲れたならぁ、私のこの広い胸にいつでも飛び込んできてくれていいからねぇ〜ん?」
「フィ、フィオナ!何言ってるのよ!」
セリナが慌てて窘めるが、フィオナさんもまた、父と同じように昼間から酒盛りをしていた一人だ。
もはやブレーキなんて残っていない。
(む、胸に飛び込んでも良い、だって……!?)
「い、いやぁ〜、フィオナさん……。僕、本当に疲れちゃいましたぁ〜〜」
「あらぁ?なら遠慮しなくていいのよぉ。私の胸に、真っ直ぐ飛び込んできなさぁ〜い!」
そう言うと、フィオナさんは豊満な両手を大きく広げ、僕を包み込むように最高の笑顔で待ってくれた。
その瞬間、僕の脳から思考が消え去り、自然と身体が前へと動き出していた。
そう、これこそが男の本能というやつだ。
僕は吸い寄せられるように、フィオナさんの魅惑の胸へとダイブしようとした。
視界の端では、セリナが顔を真っ赤にして僕を必死に止めようと手を伸ばしていたり、お父様が僕を制止するフリをしながらしれっと自分もフィオナさんの胸に近づこうとしてにやけ面を浮かべているのが見えていたが、そんな邪念はどうでもよかった。
僕のゴールは、目の前の大きなマシュマロだ。
「シエロ」
その時、母が僕の名前を、低く力強く呼んだ。
鼓膜を突き刺すその冷徹な声の響きに、一瞬にして全身の血の気が引き、僕は完全に我を戻した。
「あっ、お、お母様?その、これは一体どういう状況でしょうか……?」
(何を言っているんだ僕は 完全に動揺して墓穴を掘っているじゃないか!)
空中で無理やり姿勢を制御して着地した僕を冷たい目で見据えながら、お母様はフィオナさんへと視線を向けた。
「フィオナさんも、子供の前であまりしたない真似はしないでくださいね」
「えぇ〜?私はただ、頑張った坊やを癒やしてあげようと〜」
母は笑顔を浮かべたまま、机の下で、誰にも見えないように父の足を思いっきり強く踏みつけていた。
みしり、とお父様の骨が悲鳴を上げる音が聞こえた気がする。
お父様は痛みに顔を歪めながらも、声を出すことすら許されずに悶絶していた。
「えぇ〜?ではありません。男という生き物は、こういう些細なことで直ぐに破廉恥な勘違いをするのですから」
「はぁ〜い……」
お母様の放つ絶対王者のオーラに気圧され、フィオナさんは大人しく直ぐに座り直した。
「はっはっはっはっ!シエロ、貴様は本当に、前の主と中身までそっくりだな!」
その一連のドタバタ劇を見ていたセレスティア様が、愉快そうに大声を上げて笑った。
「ええっと……アハハハハ……」
僕が引きつった笑いで誤魔化していると、円卓の空気を切り替えるように、それまで静かにスープを口に運んでいた兄が話を切り出してきた。
「それにしても……森を三周するというのは、本当にただ基礎体力をつけるために走っただけなのか?」
兄の鋭い質問に、僕は自分の身体に残る奇妙な余韻を思い出しながら答えた。
「はい。お兄様、実は自分でもびっくりしているんですけど……。何故か呼吸は苦しくて死にそうに酷い状態だったのに、足を前に動かすエネルギーだけは不思議と底を尽きないというか。スタミナは完全に切れているはずなのに、身体だけは勝手に動いてしまう。そんな、おかしな感覚だったんです」
「……私も、シエロと全く同じよ!苦しいし、もう辞めたいって何回も考えて足が止まりそうになったんだけど、でも何故か、足が勝手に前に進んじゃうの!」
セリナも同意するように頷く。
僕たちがそれぞれの違和感を口にすると、セレスティア様が食事の手を止め、その答えを教えるように不敵に微笑んだ。
「それはな、貴様たちが無意識のうちに縁を肉体のエネルギーとして代用したからだ」
「縁を、エネルギーとしてですか?」
「そうだ。縁とはこの世のあらゆる生物に流れ込んでいる、根源たるエネルギーそのものだ。現代では、皆こぞって縁とは魔術を放つための力だと思い込んでいるようだが、別に用途はそれだけではない」
セレスティア様の興味深い解説に、円卓にいる全員が、食事の手を完全に止めて彼女の言葉に聞き入っていた。
「例えば、今の二人にとっては到底走り切れないはずの山を三周させたわけだが……まず始めに消費されるエネルギーは、貴様たち自身の肉体的なスタミナや体力だ。当然、それはすぐに限界を迎える。すると、その肉体の枯渇を察知した体内の縁が、肉体が崩壊するのを防ぐために、自動的にスタミナを補おうとエネルギーを補填し始めるのだよ」
(縁が肉体のエネルギーを補填する……!?そんな性質、学校でも、リリア先生からも一度も教わったことが無いぞ!)
周りの大人たちの反応を見る限りでも、みんな一様に驚いたような、初めて知ったという表情を浮かべていた。
「まぁ、これは本当の肉体の限界を迎えないと発動しないし、そもそも事前に知識として言われなければ、ただの火事場の馬鹿力だと思って気付かないからな」
セレスティア様にそう言われ、僕はハッとした。
(そう言えば……ハイケルと戦ったあの最後の瞬間もそうだった。完全に限界を迎えて動けないはずの身体が、何故か動いて、最後の一撃の魔術を放てたのは……あの時も、縁が僕の肉体を補填してくれていたからなのか……!)
「無論、自分自身の肉体、スタミナそのものを鍛え上げて底上げすれば、縁を肉体の維持に無駄遣いすることなく、より多くの縁を純粋に魔術の出力へと回せるようになる」
セレスティア様の説明は、信じられないほど理にかなっていた。
「だからまずはその基礎体力を上げる為にも、森を走ったのですね!」
「そうだ、明日は走るだけではなく大きな岩を押したり、木を自力で引き抜いたりしてもらうぞ」
(さ、流石に木を引く抜くのは無理がありそうだが......)
「そして、今日参加しなかったそこの三名も明日は一緒に参加してもらう」
セレスティア様の視線は父、兄、そしてフィオナさんに向けられていた。
兄はやる気満々だったが、父とフィオナさんは引きつっていた。




