第三十二話 皆月と橙の稲妻
圧倒的な絶望を誇る魔族、ハイケルとの死闘も、いよいよ終盤に差し掛かろうとしていた。
「来るわよ!」
フィオナの鋭い掛け声と共に、再び激しい戦闘の火蓋が切られた。
ソルとグイルが前衛に立ち、フィオナが後衛から二人を完璧にサポートする陣形だ。
互いに一歩も引かない、高密度な縁と縁のぶつかり合い。
その余波だけで、堅牢なスカラルド新邸が激しく揺れ、次々と崩壊していく。
兄の多彩な具現化魔術と、グイルの音波による振動魔術が、ハイケルの無尽蔵に思えた体力を確実に削り取っている。
そして何より、彼らがその実力を最大限に発揮できているのは、フィオナの戦況を見通した完璧なサポートがあるからだった。
その厄介さに気づいたハイケルは、前衛の二人を後回しにし、後衛のフィオナさんを最優先で排除するべく狙いを定めた。
「影剣」
ハイケルの巨大な大剣から、広範囲に広がる影のような漆黒の斬撃が放射状に放たれた。
ソルとグイルがその凶悪な斬撃の対応に追われた、ほんの数秒の隙。
ハイケルはその巨体に似合わぬ速度で、一気にフィオナへと迫り来る。
「まずは貴様からだ!」
ハイケルがフィオナを両断すべく、大剣を力任せに振り下ろす。
だが、フィオナは前衛の二人が離れた状況で正面からやり合っても勝算はないと最初から計算しており、狙われた時のための『保険』をすでに張っていた。
「私、そんなに簡単な女じゃないのよ!」
フィオナが地面にパンッと手を当て、予め足元に張り巡らせておいた極細の糸に一気に縁を流し込む。
「絆糸縛!」
蜘蛛の巣のように展開された無数の糸が、ハイケルの巨体に下から絡みつき、その動きを拘束する。
「こんな糸くずで、この私を止められるとでも思っているのか!」
ハイケルが全身に力を込め、剛力で強引に糸をブチブチと引きちぎる。
だが――フィオナにとっては、『その一瞬』を作れれば十分だった。
ハイケルが糸を破壊し終えた時には、既にソルとグイルがフィオナさんの元へと駆け戻っていたのだ。
ソルは即座にハイケルの足元から極低温の氷を生成し、その巨体を大地ごと強固に氷結させていく。
「だから、この程度で……ッ!」
苛立つハイケルの背後。
そこには、既に詠唱を終えようとしているグイルが猛スピードで迫っていた。
氷の拘束を砕かれる直前、グイルさんがハイケルの背中に飛び掛かり、その頭部を両手でガッチリと押さえ込む。
完全詠唱による、ゼロ距離での魔術の発動。
「共鳴締!」
逃げ場のない高密度の音圧が、ハイケルの脳髄を直接押し潰すように襲い掛かった。
「グ、ガァァァァァッ!!!」
ハイケルは今までで一番の絶叫を上げ、頭上のグイルを振り落とそうと暴れる。
だが、兄の氷と、追い打ちをかけるように巻き付いたフィオナの糸の多重拘束によって、その身体はピタリと固定されていた。
「き、貴様らぁぁッ!雑種の分際で、何故ここまで出来るのだぁぁぁ!!」
フィオナとグイル、それにソル。
この三人は、間違いなく全員が『特級レベル』の実力を持つ規格外の魔術師だ。
ハイケル自身、この世に誕生してから今まで、上級魔術師や特級魔術師が相手であっても、1対1でしか戦った経験がなかったのだ。
だからこそ、この時初めてハイケルは、人間の魔術師を相手に『本気の魔術』を発動させようとしていた。
万が一にも、自身がここで敗北するかもしれないという『死の可能性』を直感したからだ。
「死域」
ハイケルを中心に、半径十メートルの地面が、突如として禍々しい影の海で満たされた。
それは、自分を除く範囲内の対象の動きを強制的に鈍化させる絶対的なハイケルの領域。
『|死域《モル・ゾーナ』の中では、現実世界の1秒が60秒にも引き伸ばされたように感じられ、泥の中にいるようにほとんど動くことが出来なくなる。
動きの止まった三人を前に、ハイケルは拘束を完全に解き放ち、背中のグイルを力任せに弾き飛ばした。
「ハァッ……ハァッ。ここまで私を追い詰めたことは褒めてやろう。貴様ら雑種の中にも、これほどを見せる者たちが居るとは思わなかった」
ハイケルは両手で大剣を握り直し、かつてないほど禍々しく高密度な縁を刀身へと纏わせ始めた。
「極義――」
だが、この時。ハイケルは完全に失念していた。
この戦場にはもう一人、自分の黒鎧を破壊し、致命傷を与える可能性を秘めた存在がいることを。
(ここで僕の縁を全て使い切ってもいい。すべての縁を練り上げ、この杖の先端に送り込むんだ!)
僕は命懸けで時間を稼いでくれている三人を信じ、後方でただ一人、縁を練ることだけに極限まで集中していた。
だが、どれだけ強く念じて縁を練ろうとも、絶対的な『質』がこれ以上跳ね上がる気配はなかった。
(どうすれば……)
焦りが生じたそんな時、ふと、昔リリア先生に教わった言葉が脳裏を過った。
「シエロ君は、一つの縁を細かく切り刻んで、その刻んだ縁一つ一つを丁寧に練り上げているから質が高いのです。純度の高い縁ほど、金色や虹色のような美しい色になります」
その言葉を思い出し、僕はハッとした。
今の僕は、焦りから意識的に『大きな縁の塊』を力任せに練り上げようとしていたのだ。
僕は深く息を吐き、心を静めた。
そして、体内の縁を極限まで細かく刻み、そのミクロな欠片の一つ一つを、祈るように丁寧に練り上げることを意識した。
すると――僕の全身から溢れ出る縁のオーラが、美しい金色から、わずかに『虹色』の光を帯びて変色し始めていた。
(お兄様たちがあいつの隙を作ってくれる、その最後の一瞬まで……ギリギリまで溜め続けるんだ!)
動きを鈍化させる領域の中、ハイケルがフィオナたちへ死の制裁を下そうと、禍々しい大剣を振り上げた――まさにその瞬間だった。
「断絶!!!!」
ハイケルの意識から完全に外れていた死角。
限界まで練り上げられ、虹色の光を帯びた縁。
僕の『断絶』が、一直線にハイケルへと飛来した。
(――なっ!?)
迫り来る想定外のエネルギーを前に、ハイケルの動きに一瞬の迷いが生まれる。
『このまま、剣だけで受けきれるのか?』
そう考えた時には、もう遅かった。
ハイケルは咄嗟に大剣の腹を盾にして、僕の斬撃を受け止める。
ガガギギギギギギィィィンッ!!
「クッ……!この威力……この私の力だけで抑えきれんというのか!?」
火花が散り、ハイケルの巨体がズズズッと少しずつ後ろへと押し込まれていく。
(イケる!このまま押し切るんだ!)
少しでも気を抜けば、あっという間に押し返されてしまいそうな恐ろしい圧。
だが、僕が思っていた以上に、ハイケルもこの一撃を抑え込むことに苦戦しているようだった。
ついにハイケルは、僕が放った『断絶』を凌ぎ切るために、縁をすべて自身の強化へ回す決断を下した。
フッと、周囲を覆っていた影の海『死域』が解除される。
自身のすべての縁で全身を強化したハイケルは、後退を止め、その場で両足を深く地面に沈み込ませて踏み止まった。
(もっとだ。もっと僕が押し込まないと!)
僕は全身の力を振り絞り、縁を杖へと送り続けた。
全身の骨が軋み、砕けそうなほど重い。
(駄目だ……これ以上は、押し返せない……!)
僕の体力が限界を迎えようとした、その時。
『死域』が解除されたことで自由を取り戻したソル、フィオナ、グイルの三人が、一斉にハイケルへと追い込みをかけた。
それぞれの魔術が、防御に釘付けになっているハイケルに容赦なく降り注ぐ。
「き、貴様らぁぁッ!!」
ついに、ハイケルの大剣にピキリと亀裂が走った。
そして――。
メキィ……バキバキバキッ……バァッギィィィンッ!!!
三人の猛攻と、僕の『断絶』の圧倒的な負荷に耐えきれず、絶対の硬度を誇っていた大剣が粉々に砕け散った。
防御を失ったハイケルに、僕の『断絶』が漆黒の鎧ごと直撃する。
(よし!このまま押し潰すだけだ!)
ようやくハイケルを倒せる。
そう確信し、僕は残された最後の力を振り絞って押し込んだ。
「グォォォォォォォォッ!!」
ハイケルが苦悶の咆哮を上げる。
『断絶』が直撃している腹部の黒い鎧が、ベリベリと剥がれ落ちていく。
ハイケルは自身の身体が両断されるのを防ぐため、なんと素手で直接僕の不可視の斬撃を挟み込むようにして抑え込んでいた。
(あいつ、僕の魔術を素手で掴んでるのか!?)
それすらも許すまいと、兄たちが決定的な追い打ちをかけようと踏み込む。
「この私が!あんな餓鬼の一撃に、やられると思っているのかァァァッ!!」
兄たちの魔術が届くよりも一瞬早く。
ハイケルは全身の縁を爆発させ、両手で挟み込んでいた僕の『断絶』を、力任せに粉砕した。
パァァキィィィンッ!
限界まで練り上げた僕の全力の魔術は、まるでガラスが割れるように無惨に散った。
「う、嘘だろ……」
僕は完全に縁切れを起こし、糸が切れたように片膝を地面についてしまった。
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……」
魔術を砕いたハイケル自身も、立っているのが不思議なほど消耗し切っていた。
顔を残し、全身を覆っていた黒い鎧はすべて剥がれ落ちている。
そして、露出したその身体の至る所からは、赤ではなく『紫じみた体液』が不気味に噴き出していた。
「おいおい……あいつ、鎧の下はあんな気色悪いことになってたのかよ」
「私も、てっきり筋肉ムキムキの身体が詰まってるんだとばかり思っていたわ」
「お二人とも。今はそれよりも、あいつの息の根を止める最大のチャンスです」
警戒を解かない兄が、フィオナさんとグイルさんにトドメを刺すよう声をかける。
「そうね。……最後、行くわよ!」
剥がれ落ちた鎧の下から姿を現したハイケルの正体。
それは、腸のように蠢く無数の太い管が複雑に絡み合い、辛うじて人間の形を形成しているだけの、おぞましい肉の集合体だった。
管の集合体こそがハイケルの『本体』であり、あの強固な鎧は、彼自身の縁が凝固してできたただの殻に過ぎなかったのだ。
三人がハイケルの本体を確実に消し去るべく、最後の魔術を発動させる。
すっからかんになった僕は、ただその三人の頼もしい背中を見つめていることしかできなかった。
それでも、兄やフィオナさんたちなら、絶対にやってくれる。
そう、自然と信じることができた。
トドメを刺そうとした三人の動きが、一瞬、凍りついた。
グゥゥゥン……!
突如として、ハイケルの本体、蠢く腸のような管の集合体から、これまで感じたことのない、重苦しく、悍ましい縁が膨れ上がったからだ。
「い、今のはあいつから……?まさか、まだ何か隠しているっていうの!?」
フィオナの戦慄した声が響く。
その通りだった。
ハイケルは決して満身創痍で立ち尽くしていたわけではなかった。
この最後の一瞬のために、極限まで体力を温存し、声に出さぬ『静かなる詠唱』を唱え続けていたのだ。
「死と暗黒が交わるとき、月は黒く歪む。
その美しさ、その絶望感、我が血に流れし魔族の本質そのもの。
我が欲望のままに、暗黒よ、今ここに目覚めよ。
この砕け散りし大剣に集結し、敵のすべてを飲み込め。
光も希望も粉々に砕き、世界を黒で埋め尽くせ」
不気味な声が戦場に直接響く。
「まずい!!」
ソルがその異変に気が付いた時には、すでに全ての詠唱は終わっていた。
急いで三人がハイケルに止めを刺そうと魔術を放った、その瞬間――。
「極義――『黒月』」
ハイケルが冷酷に告げた。
その瞬間、光を吸い込むような漆黒の『皆月』の形をした斬撃が、凄まじい速度で三人に向かって放たれた。
放たれた斬撃は、三人それぞれの未来を無慈悲に分断した。
ソルは、それがただの魔術ではないとを察知し、即座に身を翻した。
右耳にかすり傷を負ったが、致命傷は避けた。
次にフィオナ。
最も距離があったことと、フィオナ自信の卓越した直感が、防御ではなく完全な回避を選択させた。
黒月の刃を浴びることなく、無傷。
そして、グイル。
一番ハイケルに近く、この皆月の斬撃が絶対的な『死』を運ぶものであることにはすぐに気が付いていた。
だが、それを回避する時間は残されていなかった。
グイルの強靭な肉体は、防ぐ術もなく、漆黒の刃によって真っ二つに斬り裂かれ、声もなく一撃のもとに沈んだ。
本来、ハイケルの極義『黒月』は、動きを封じる『死域』と合わせて使用する、必中必殺の技である。
その皆月の斬撃は、対象が物理であろうと魔術であろうと、如何なる防御も貫通し、対象の存在そのものを両断する。
シエロの縁を絶つ『断絶』とはまた違った、ハイケルだけが扱える、唯一無二の、真なる魔族の魔術だった。
「グ、グイル……ッ!」
フィオナは、その場で両膝から崩れ落ちた。
その瞳は驚愕と絶望に染まっている。
ソルも言葉を失い、その場に固まってしまった。
ハイケル自身も、すべての縁を使い果たし、限界を迎えている。
だが、残された力を振り絞れば、動けない今の二人を仕留めることは容易だ。
「さっさと貴様らを倒して……あの餓鬼を殺す」
ハイケルがおぞましい肉体を蠢かせ、二人に近づこうとした、その時。
彼は何かに気づいたように動きを止め、その禍々しい視線を、膝をつく僕へと向けた。
「まさか……。貴様は……ッ!?」
僕は、何もできなかった。
ただ、見ているだけだった。
みんなが命懸けで頑張っているのに、僕は一発魔術を撃っただけで、縁を枯渇させて膝をつき、みんなが傷つくのを眺めているだけだった。
(まただ……。また僕のせいで……。僕が、弱いせいで……!)
涙が溢れて止まらなかった。
自分の無力さへの、強烈な怒りと憎悪。
だけど、その絶望の底から、心の奥底、魂の深い場所から、縁が湧き上がってくるのを感じた。
僕は震える脚で立ち上がり、再び、杖に縁を込めた。
この時、僕から溢れる縁には、金色でも虹色でもなく、再び、あの苛烈な『オレンジ色の稲妻』がけたたましく走っていた。
「良くも……。良くも、グイルさんを!!!お前だけは、僕が、絶対に倒す!!!」
僕はありったけの怒りを込めて、杖をハイケルに向かって思いっきり振り下ろした。
オレンジ色の稲妻を纏った不可視の斬撃が、ハイケルに向かって放たれる。
ハイケルは、僕から溢れるそのオレンジ色の稲妻を見て、何かを悟ったように、抵抗することなくその場に立ちすくんだ。
「そうか。貴様は……『そっち側』だったか……」
僕の放った怒りの斬撃がハイケルを直撃し、そのおぞましい本体を、跡形もなく蒸発させ、消滅させた。
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……。倒し……た……」
僕は杖を杖代わりにして、辛うじて立ち続けていたが、意識が遠のき、そのままその場にバタリと倒れ込んだ。
後に残されたのは、激しい戦闘によって荒れ果てたスカラルド新邸と、意識を失ったシエロの元に急いで駆け寄る兄、そして、物言わぬグイルの死体の傍らで、泣き崩れるフィオナさんの悲痛な泣き声だけだった。
一方、同時刻。
別戦場のヴィクターとセリナ対イザトラもまた、最終局面を迎えていた。




